第2回 1957年、東京だョおっ母さん!高田渡8歳、東京へ!
やさしかった兄さんが
田舎の話をききたいと
桜の下でさぞかし待つだろ
おっ母さん あれが あれが九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんが
「東京だョおっ母さん」詞:野村俊夫 曲:船村徹 唄:島倉千代子
「左翼こそ靖国へ行け」と、平岡正明は云った。「昭和ジャズ喫茶伝説」の一文だ。
終戦記念日の靖国神社は、タイムスリップしてきた軍人さんたちがぞろぞろり。
進軍ラッパがこの世の終わりを告げるかのように真夏の空に鳴り響き、名前を持たない奴らが自己のアイデンティティの補完のために英霊を利用する。
奉納された提灯に宿る純粋な悼む気持ちは、遊就館の落とす影のなかで歪曲される。
その一筋縄ではいかない怪しい喧騒の中心に、表情を歪めた鈴木邦男が立ち尽くしている。
桜の下で会いましょう。靖国で待っております。
靖国の「靖」という字は、《安らかに》という意味である。
しかし、国は安らかになるどころか、ますます歴史を複雑化させ、民の心を混乱させている。
東の空が燃えてるぜ
大砲の弾が破裂してるぜ
お前は殺しのできる年
でも選挙権もまだ持たされちゃいねえ
「明日なき世界」詞:Barri Steve 曲:Sloan Philip Gary 訳:忌野清志郎
「ベラボーだ!」
1957年、岡本太郎が雪原を滑降している。
46歳にして初めたスキー。雪が粉塵となってほとばしり、光の粒となる。
日本トロッキスト聯盟・第四インターナショナル日本支部が結成された正月だって、TAROの爆発は何も関係がない。
この年、岡本太郎は「二つの顔」という絵画作品を残している。
誰にでも複数の顔がある。
だが、動いていくその一歩は、ひとつきりだ。人生は選択なんだ。
鳥の野郎 どいていな
とんびの間抜けめ 気をつけろ
癪なこの世の カンシャク玉だ
ダイナマイトがヨ ダイナマイトが百五十屯
高田渡、8歳。母を喪くす。
孤高のアナキスト高田豊は、渡さんとその兄たちを連れて、岐阜の北方町を去った。
流れ着いたは若き日を過ごした首都東京。貧乏に貧乏をかさねたような、どん底の暮らしが始まった。
高田家は住まいを転々とする。渋谷の道玄坂近くの旅館で数泊したのち、武蔵小山、下目黒、品川、練馬とアパートを替えていった。
乳母車を押したウディ・ガスリーが都市を彷徨う。
腰の刀は、詩集かもしれないし、酒瓶かもしれない。
土手のほうに、乳母車ではなくリヤカーを引いて奔走している、恋と夢に明け暮れる若き詩人の姿が見えた。
それはアナキスト子連れ狼の過去のまぼろしである。
「バカヤロー、あれは捨てた町だ」
そう吐き捨てて、息子たちとともに再び道中を急ぐ。
付け加えるべきは、末っ子が、ちびガスリーでありながら紛れもなく、言い訳知らずの木枯し紋次郎の冷めた目をしていたことである。
くもは焼け 道は乾き
陽はいつまでも 沈まない
こころはむかし死んだ
ほほえみには会ったこともない
きのうなんか知らない
きょうは旅をひとり
3月10日、19歳になる直前の島倉千代子が歌う「東京だョおっ母さん」が日本コロムビアから発売された。
作詞、野村俊夫。作曲、船村徹。B面は「故郷のかほり」。
少し先輩の美空ひばりが歌う「波止場だょ、お父つぁん」のような曲をと島倉千代子が望んで誕生した、東京と故郷が夢とうつつの中でかさなり合う慈愛の歌だ。
へディ・ウェストの「500 Miles」やジョン・デンバーの「Take Me Home, Country Roads」から、サザンオールスターズの「東京VICTORY」に至るまで、歌は《帰れないこと》を示し、それを過去現在未来を通じてやめることはない。
東京とは、物語を終わらせ、物語を始める場所なのだ。そこには絶望と希望とすべてがある。東京ワッショイだ。
いい時は最高 悪い時は最低
いつでもどっちかさ
だから嘘はつかない いい奴さ
今日は気分はどうだい 東京(ワッショイ)
「東京ワッショイ」詞・曲:遠藤賢司
「東京だョおっ母さん」の歌詞では、二重橋、九段下、浅草観音と巡っていく。
戦争で命を落とした《やさしい兄さん》は《桜の下(=靖国神社)》に祀られている。
焼け野原からの復興と、そして文明の発展は目まぐるしくも、しかし第二次世界大戦終結よりいまだ12年の月日しか経っていない。それなのに《新しい昭和》は速度を増していくばかりだ。
7歳のときに井戸に水を汲みにいき、後年まで左腕が不自由だった島倉千代子。
小児麻痺の姉のぶんまでがんばって、歌手になった。
東京だョ、おっ母さん!
幼くして母を喪くし東京に出てきた高田渡の、これから始まる長い長い人生と重なりゆく。
しかし、高田渡も島倉千代子も、いま思い出すのは、その深く可愛らしい、それでいて寂しさをたたえた笑顔なのだった。
「房子が外国へ行くとき、わたしは『戻るな』と言った。
どこへ何をしに行くのか知っていたわけではない。
だが革命家というのはいつも、大きな流れの中で寂しくてきびしい思いをする」
塩見孝也逮捕後に中東の地へ旅立った重信房子。
その房子に、父親である重信末夫が雑誌のインタビューで語った言葉だ。重信末夫は、井上日召が指揮した戦前の暗殺右翼集団「血盟団」の関係者だった。
父は「娘は右翼です」と言った。命をかけて世の中を変えようとする娘は右翼なんだと言う。
また同じく血盟団出身の小沼正は、「日本精神は左翼だ」と語る。弱者を救うために闘うことは左翼精神なんだと言う。
右も左も、辿り着くのは澄み渡る青空だ。
悲しいだろう みんな同じさ
同じ夜をむかえてる
風の中を一人歩けば
枯葉が肩をささやくョ
どうしてだろう このむなしさは
誰かに逢えばしずまるかい
こうして空を見上げていると
行きていることさえむなしいョ
「どうしてこんなに悲しいんだろう」詞・曲:吉田拓郎
8月27日、午前5時23分。茨城県、東海村。
原子炉は臨界点に達し、日本最初の「原子の火」が灯った。
それがどういうことなのか、この国に住まう人々が身をもって理解するのは、まだ先のことだった。
12月、第四インターナショナルは、革命的共産主義者同盟に改称。新左翼の火も燃えはじめた。
東京だョおっ母さん。
有楽町で逢いましょう。
あまから横丁に、小金馬、貞鳳、猫八の影が伸びる。
アハハ ウフフ
エヘヘのオホホでアハハのハ
僕らはお笑い三人組
「お笑い三人組」詞:名和清郎 曲:土橋啓二
text by 緒川あいみ(れいたぬ)
*参考図書
高田渡「バーボン・ストリート・ブルース」(山と渓谷社)
本間健彦「高田渡と父・豊の『生活の柄』」(社会評論社)
「日本の右翼と左翼」(宝島社)
鈴木邦男「証言・昭和維新運動」(島津書房)
☆次回予告
第3回は、「1960年、哀しみの60年安保!短刀持った山口二矢と新聞配った高田渡」です。
(この連載は、ホームページに書いている「フォークソング・クロニクル」のはてなブログ版です。
この第2回は http://morinokaigi.chu.jp/f-chronicle/2_1957 のコピーです)
第1回 1949年、サッチモ・ひばり・カンカン娘!高田渡うまれる!
マレビト。折口信夫が提示した、時空を超えて別次元の世界から訪れる霊的存在。
あるいは遊行者。定住できない社会的理由が夢の観念のもとに逆転していく。
どこから現れたのか、いったい何者なのか、知る必要はない。
フォークシンガー高田渡は、自らの存在が歴史に残ることより、歌のひと節が未来に口ずさまれることを理想とした。
Though we're apart
You're part of me still
For you were my thrill
On Blueberry Hill
The wind…
「Blueberry Hill」詞:Al Lewis 曲:Vincent Rose 唄:Louis Armstrong
広島と長崎に原爆が落ちて第二次世界大戦が終わって3年半。
中国共産党が勢力を広げ、NATOが発足し、イスラエルが国連加盟国となり、朝鮮労働党が結成され、煙草の「しんせい」が発売された。
そしてキラキラ光る、穴のあいた5円玉が発行!
レコードみたいな、CDみたいな、輝く小銭!
戦後まもなくの日本を歌謡曲が元気づけていた。この年のヒットは、藤山一郎の「青い山脈」。
雨にぬれてる 焼けあとの
名も無い花も ふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺の
なつかしさ
見れば涙が またにじむ
「青い山脈」詞:西条八十 曲:服部良一
1949年1月1日、高田渡はこの世に生を受けた。元旦うまれの月足らずの四男坊。
ゴータマ・ブッダがうまれたばかりで「天上天下唯我独尊」と言ったように、赤ん坊の高田渡も「どうもどうもいやどうも」と呟いたかどうかはわからない。
元旦うまれというのは、ほんとうは一日前の大晦日だったかもしれないし、もっと前だったかもしれない。
どうもどうもいやどうも
いつぞやいろいろこのたびはまた
まあまあひとつまあひとつ
そんなわけでなにぶんよろしく
「ごあいさつ」詩:谷川俊太郎 曲:高田渡
本間健彦氏の「高田渡と父・豊の『生活の柄』」には、高田渡のルーツが詳細に紐解かれている。
高田家はかつて材木屋として美濃の大震災の折りに財を成したが、渡の祖父の馬吉が星製薬の株と中津川の干拓に投資をし、失敗したという。
濃尾地震は1891年、10月28日の朝に発生した。規模は広く、数多くの死傷者が出た。倒壊家屋は14万2177戸といわれる。
この年、添田唖蝉坊は壮士演歌に出会ってはいるがまだ活動を始めてはおらず、オッペケペー節の川上音二郎は大阪で一座を旗揚げ、ミシシッピ・ジョン・ハートはこの世に生を受ける一年前、レッドベリは2歳か3歳。
渡の父である高田豊は、若き日の東京での詩人時代を経ての実家暮らし。
かつては師匠、佐藤春夫のもとで山之口貘とも同門だったが、何か不手際を起こして破門になってしまう。
この1949年、昭和24年頃はさまざまな仕事を試みていた。壁紙売り、麻雀屋、パチンコ屋、そして山羊のミルクの生産販売業。
高田渡は山羊のミルクを飲んで育ったという。
戦争終わったけど
牛はいない 山羊はいた
山羊のミルクは獣くさい
オイラの願いは照れくさい
「山羊のミルクは獣くさい オイラの願いは照れくさい」詞・曲:あがた森魚
1949年、ルイ・アームストロングは「ブルーベリー・ヒル」という曲をリリース。まだ「ハロー・ドーリー」も「この素晴らしき世界」も生まれるずっと前。
「ブルーベリー・ヒル」は、のちにグレン・ミラー楽団やファッツ・ドミノがヒットさせた。つくったのはヴィンセント・ローズ。もともとは、1941年のジーン・オートリーが映画「The Singing Hill」の挿入歌として歌ったのが最初だ。
韻が(≒因果)踏まれていく。thrill, hill, still, until, playd, made. シンプルな、恋の終わりの物語。
物語が終わることは物語が始まること。
人は世界と重なり交わっていくことで、生まれたとき当然のこととして持っていた自己の存在価値を取り戻す。
天賦典式。この世に生まれ入ったことこそ大いなる才能とする。どんな物語の地平であっても、麿赤兒の言葉が脈打つ影をたずさえながら映写される。
思いつきでもいいから
腰を上げたほうがいい
つかむものをつかんだら
いますぐ出かけたほうがいい
「たかが私にも」詞・曲:加川良
ルイ・アームストロングの生まれ育ったニューオリンズはスラム街で、犯罪と貧乏ばかり。そして同時に音楽が溢れていた。
お祭りの狂騒の中、ピストルをぶっ放して少年院に入ったサッチモ。そこでコルネットと出会い、町の人気者になる。
ポップミュージックの王様として知られる彼は不眠症に悩まされ、ジャズマンらしくマリファナの常習者。タイマーズ!生涯を通じてマリファナ解放論者だった。
サッチモに始まり、素晴らしい魅力あるシンガーには、しゃがれ声の人が多い。二代目廣澤虎造、木村充揮、友部正人、桑田佳祐、高田渡。まるで世界そのものを体現するように、声というものはブルーズをまとって風景を捉える。あるいは忌野清志郎は泣いているようにも怒っているようにも笑っているようにも聴こえるのだ。ちなみに添田唖蝉坊は、わりと澄んだ声だったという。
ぼくは君を探しに来たんだ
ぼくは海を離れ 山を越えやって来た
話し上手の君にも会いたかったし
ぼくのいない街で暮らしたかったから
「ぼくは君を探しに来たんだ」詞・曲:友部正人
高田渡は後年、ヒルトップストリングスバンドを引き連れ、「ヴァーボン・ストリート・ブルース」というアルバムをフォーライフから発売する。表題曲は唯一の随筆本のタイトルにもなった。バーボン・ストリートとはニューオリンズの通りである。
映画「タカダワタル的」に収録されている晩年の下北沢ザ・スズナリでのライヴを観てもわかるように、高田渡はジャズマンだ。
朴訥として痛烈、ポップでブルージーな彼の精神は、たぶんにジャズ的だ。バンドメンバーのソロ演奏を嬉しそうに見つめる。
同時に、大瀧詠一や鮎川誠に影響を与えたロックミュージシャンでもあり、語りと歌が渾然一体となっていくそのパフォーマンスは浪曲師のようでもあり、何より場の空気を掴んでしまう雰囲気は椅子に座ってはいるがスタンダップコメディアンである。
高田渡は日本文化の精神という器で、アメリカのフォークミュージックを受け取り、あたらしい歌の境地を醸造し、そのできあがった酒をコップに注いだ。
ブルーズは、悲しみを元気に歌った音楽だ。
宗教における信仰心と、民族の歴史の重たさと、そうしたコミュニティからサッチモは生まれたのだろう。
観阿弥、世阿弥の昔から、芸能者たちはそのような状況と境遇の中で、あたらしいマボロシや価値観を示しつづけた。
いくら歩いても
いくら歩いても
淋しい気持ちは変わらない
ああ まっぴらさ
「淋しい気持ちで」詞・曲:シバ
しかしひとまずここは、東京外国語大学を除籍になった竹中労が「革命窃盗団」を結成し、富める者からモノを盗んでいた時代の断片。蔵物故買容疑での逮捕から釈放され、日本共産党に復帰した1949年だ。
21歳の竹中労は、印刷工、記者、書店員、劇団、映画サークルと、あの手この手で人生を奔走していた。
芸能界では、笠置シヅ子の歌をうたう子供として川田晴久の一座で脚光を浴びた美空ひばりが、灰田勝彦のレビューに出演し、銀幕にも登場。
そして「河童ブギウギ」で、わずか12歳でレコードデビュー。
ずっとのちに、デビュー前の高田渡は灰田勝彦と出会い、大切なことを教えてもらうが、それはまた別の話。
巷では、高峰秀子の「銀座カンカン娘」がヒットしていた。
抜けるような空の下で おいら唄う
ヴァーボン・ストリートのブルースを
お前のために
おいらいつかお前を見つけて
一緒に唄うのさ
ヴァーボン・ストリートのブルース
「ヴァーボン・ストリート・ブルース」詞:高田渡 曲:Frank Assunto, Fred Assunto, Jac Assunto
もうすぐ夜だ。雨も降りそうな予感。
歌の旅はずっとつづいている。
宇宙はいつだって胸の中にあった。
ハッピーバースデー、渡さん。
物語がはじまる!
text by 緒川あいみ(れいたぬ)
http://morinokaigi.chu.jp
*参考図書
高田渡「バーボン・ストリート・ブルース」(山と渓谷社)
本間健彦「高田渡と父・豊の『生活の柄』」(社会評論社)
DVD「タカダワタル的」(アルタミラピクチャーズ)
「竹中労・別れの音楽会 1991年9月20日 川口リリアホール」パンフレット
☆次回予告
第2回は、「1957年、東京だョおっ母さん!高田渡8歳、東京へ!」です。
(この連載は、ホームページに書いている「フォークソング・クロニクル」のはてなブログ版です。
この第1回は http://morinokaigi.chu.jp/f-chronicle/1_1949 のコピーです)