フォークソング・クロニクル

うたと文化の一万年史

第8回 1965年、最初のシンガーソングライター登場!美輪明宏が見た「世界」


 父ちゃんのためならエンヤコラ
 母ちゃんのためならエンヤコラ
 もひとつおまけにエンヤコラ

 今も聞える ヨイトマケの唄
 今も聞える あの子守唄
 工事現場の ひるやすみ
 たばこをふかして 目を閉じりゃ
 聞えてくるよ あの唄が
 働く土方の あの唄が
 貧しい土方の あの唄が

 「ヨイトマケの唄」詞・曲:美輪明宏(1965)

大塚製薬からオロナミンCが発売され、朝日新聞フジ三太郎が登場し、テレビをつけたら「小川宏ショー」に「11PM」。
オバケのQ太郎がアニメになった昭和40年。
でも1965年のお話に行く前に、フォークソング・クロニクルの時計は、いくらか巻き戻されてから、チクタクと確かに静かに針を進めていく。
ちょっと戻って、ときは1935年から。
長崎の遊郭街「丸山遊郭」でうまれた美少年。
カフェー「世界」で、世界を見てた。
色事の世界で、夕暮れ空を見てた。
そして戦争。
10歳のとき、原爆が堕ちてきた。
丸山明宏、おうちで御伽草子の絵を描いてた。

 We'll meet again
 We'll meet again
 Don't know where
 Don't know when
 But I know we'll meet again some sunny day
 Keep smiling through
 Just like you always do
 Till the blue skies drive the dark clouds far away

 「We'll Meet Again」詞・曲: Ross Parker, Hughie Charles 唄:Vera Lynn(1939)

映画「博士の異常な愛情」のラストで、きのこ雲の映像に合わせて、ヴェラ・リンの「We'll Meet Again(また会いましょう)」が流れ出す。
あるいは今村昌平の映画「カンゾー先生」のラストシーン、柄本明麻生久美子が船を漕ぐうしろで舞い上がるきのこ雲。
1945年、第二次世界大戦終結する。
昭和天皇玉音放送、正直、何を言っているのかはよくわからない。
ただ、戦争が終わったらしい。

 A very Merry Xmas
 And a happy New Year
 Let's hope it's a good one
 Without any fear
 War is over!
 If you want it
 War is over! Now!

 「Happy Christmas(War Is Over)」詞:LENNON JOHN WINSTON 曲:LENNON YOKO ONO 唄:John & Yoko(1971)

時は流れ、1952年。
17歳の丸山明宏は新宿でホームレス。
銀座7丁目の「銀巴里」の美少年募集の貼り紙見つけ、性別年齢国籍不詳の歌手となる。
文化人たちと対等なコミュニケーション、まさに丸山明宏は異世界からやってきたマレビトだ。
1957年に「メケ・メケ」を日本語で歌い、人気を博す。
以降も、単にシャンソンをそのまま歌うのではなく、自作の歌を拵えていった。
発症した原爆症に悩まされながらも、そのとき確かに、戦後日本で最初のシンガーソングライターが誕生していったのだ。
そして1964年にステージで初めて披露し、翌1965年にレコード化したのが、「ヨイトマケの唄」だ。
きらびやかなシスターボーイが、過酷な肉体労働者たちの歌をつくる。
現実社会を、厳しく貧しい暮らしを、ありのままに歌う。
それはフォークソングの原点である。

 北から南からいろんな人が
 毎日家を離れ
 夜汽車に揺られはるばると
 東京まで来るという
 

 銭がなけりゃ きみ
 銭がなけりゃ
 帰ったほうが身のためさ
 あんたのクニへ

 「銭がなけりゃ」詩:高田渡 曲:Wondy Guthrie 唄:高田渡

しかし、戦争は終わっていないのである。
1950年の朝鮮戦争が起こったことにより、日本はアメリカからのさまざまな発注により軍需景気を享受した。
1955年にベトナム戦争が起これば、日本から米軍機が飛び立っていく。
いったいどこが平和国家と言えるのか。確かに中身は平和でも、じゅうぶんに戦争に加担しながら、高度経済成長も何もかもを進めていったじゃないか。
ヨイトマケの唄」がリリースされた1965年には、アメリカは北爆を開始。ベトナム戦争は激化していく。
東京では小田実らが「ベトナムに平和を!市民連合」を旗揚げ。
ときは60年安保と70年安保の中間地点。

 平和にあこがれ 僕等は育った
 ゲバ棒 竹やり ヘルメット
 パイプ爆弾 ダイナマイト
 今日も明日も 闘い続ける
 僕等の名前を 覚えてほしい
 戦争しか知らない子供達さ

 「戦争しか知らない子供たち」唄:頭脳警察

ところで、1960年代始めに出現した最初のシンガーソングライターは、丸山明宏だけではない。
東宝の映画スター、加山雄三は1961年に「夜の太陽」でデビュー。
1965年には映画「エレキの若大将」の主題歌「君といつまでも」をリリースしている。作詞は岩谷時子だが、曲を弾厚作、すなわち加山雄三が書いている。
丸山明宏が土方やその子供たちの視線で「ヨイトマケの唄」を歌っていたとき、上原謙の息子である加山雄三は「君といつまでも」歌っていたのだ。
茅ヶ崎の星空から都心の青空まで、腕をめいっぱいに広げ、「しあわせだなぁ~」なんて笑っていたのである。
歌は世につれ世は歌につれ、どのような歌も大衆のものだ。
土と風の匂いがするフォークソングやブルーズも、砂浜や舗道の記憶よみがえるポップチューンも、どちらもひとしく歌であろうと思う。
それぞれのシンガーに、天から与えられた役割があるのである。

 ふたりを夕やみが つつむこの窓辺に
 あしたもすばらしい しあわせがくるだろう

 君のひとみは 星とかがやき
 恋するこの胸は 炎と燃えている
 大空そめてゆく 夕陽いろあせても
 ふたりの心は 変らない いつまでも

 「君といつまでも」詞:岩谷時子 曲:弾厚作 唄:加山雄三 

高田渡は、著書「バーボン・ストリート・ブルース」で、嫌いな人物として、三島由紀夫小田実を挙げている。
美輪明宏と懇意だった三島由紀夫も、高田渡にかかれば、自己顕示を曝し、若者を道連れにした者として、あの熱くも冷めた目でトドメをさされる。
そして小田実も、自分は安全な場所にいながら威張っている存在として、熱くも冷めた目でトドメをさされるのである。
右か左かではない、高田渡はひとりで真ん中を歩き続けた。
1965年当時は高田渡、16歳。
5月9日、日本アイスクリーム協会は「アイスクリームの日」を制定する。
のちに高田渡が晩年まで歌いつづける「アイスクリーム」は粋な猥歌である。
魔術のようなギターの旋律で始まり、歌い出すと、あっというまに終わってしまう。
高田渡は実質、ウディ・ガスリーより、柳家三亀松に近いところにいる。

 アイスクリーム
 アイスクリーム
 アイスクリーム 私の恋人よ
 あんまり長く放っておくと
 お行儀が悪くなる

 「アイスクリーム」詩・曲:高田渡 唄:高田渡

この年、ブルーボーイ事件、起きる。
男娼さんたちの中で、性転換手術(現在で言う性別再適合手術)を望む人たちは、女性器のあるカラダになって商売を続ける。
それは警察にとって苦々しい状況であり、1964年に3人に手術を施した医師が、年が明けて逮捕されてしまう。
これが世に言うブルーボーイ事件
言わば、ゲイとトランスジェンダーの境界線が発生した瞬間かもしれない。
のちに、性同一性障害という医学上の分類がうまれ、精神科医の診断がなければ手術はできないというルールがつくられる、大きな要因となる。

 俺のあん娘は男が好きで
 いつもンフフフフフ
 おいらのことなんかほったらかしで
 いつもンフフフフフ

 あんたがあたいの寝た男たちと
 夜が明けるまでお酒飲めるまで
 あたい男やめないわ
 ウフフフフフフフ

 「プカプカ」詞・曲:象狂象 唄:西岡恭蔵

丸山明宏はその後、寺山修司天井桟敷で女優となり、さらに70年代に入り、天の啓示を受け、美輪明宏へと金色の光をもって紛れもなく誰とも違う個人として、現世にオーラを放つ。
もはや、すべての境界線は取り払われた。
21世紀の世界において、われわれはいつまで人間のふりをして、それでいて人間になれないままなのか。
美輪明宏の歌う「シャンソン」とは、フランスの大衆的な歌謡曲であり、つまりは歌という意味の言葉だ。
謡曲、民謡、フォークソングシャンソン。どれもまったく同じ意味である。
人は、自分自身のカラダがつくりだす影を、自分自身で背負ったまま、都市で、農村で、田園で、森林で、そして港町で、自分自身の歌を歌う。

 時は過ぎて汽笛が鳴る 来るときが来ました
 男は立つ女すがる 引きずられながらも
 想い出の石だたみに 投げ出される女よ
 船をめざし走る男 叫ぶ女をすてて

 メケメケ バカヤロー 情なしのケチンボ
 メケメケ 手切れの お金もくれない

 あきらめて帰ろ やがて月も出る港

 「メケ・メケ(ME-QUE ME-QUE)」原詩:Charles Aznavour 曲:Gilbert B?caud 日本語詩:丸山明宏

 


text by 緒川あいみ(れいたぬ)