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うたと革命の一万年史「フォークソング・クロニクル」 A面 track-3 アカシアの雨がやむとき

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マメ科ネムノキ亜科のアカシアの花は、日本では関東より北では育たないという。

育たなかった、育てられなかった、咲いたけれども乱暴に踏みつくされ根絶やしにされた、その花がいっせいに雨のなかに散った夕暮れ。
それから55年の月日が過ぎた。
1970年、「命はひとつ 人生は一回 だから命を捨てないようにね」と加川良が歌った。
1981年、「死ぬのは嫌だ、怖い。戦争反対!!」とスネークマンショーがコントをした。
2015年、「戦争したくなくてふるえる」と北海道の女の子たちがデモをした。
アカシアの花は、咲きつづけた。
時空を振り返って、高田渡少年、11歳。

1960年1月19日、ときの総理、岸信介と、アメリカ大統領アイゼンハワーによって、日米安保の新条約が締結。
同年5月19日、自民党強行採決によって翌日、衆院本会議を通過。
以降、この年は、自民党と右翼とヤクザと左翼と警察の大騒乱になる。
そして、アメリカと日本の関係はいまも同じように続き、現在、岸信介の孫がさらに日本を戦争に近づけている。
ならば、単なる「アベ政治は許せない」なるフレーズでは済まされない、長期的かつ計画的な悪政のブラックホールが存在するということだ。
しかし、街角の映画館のスクリーンには確かに、「座頭市」シリーズの前身である映画「不知火検校」が存在していた。
勝新太郎演じる不知火は悪人であり、市はというと善人である。
だがどちらにしろ、不知火検校にしろ、座頭市にしろ、60年安保のゴタゴタに巻き込まれたならそのときは、斬って斬って斬りまくるだろう。

時代の騒乱をよそに、高田渡一家は何とか深川のアパートに落ち着いていた。
社会がどうであれ、個人は個人として、まず生き延びねばならない。
練馬のアパートを夜逃げ同然で出て行き、上野公園近くにあった進駐軍の兵舎、通称カマボコハウス跡を使ったシェルター施設を経て、辿り着いたのは深川の塩崎荘。
このアパートでは、四畳半の部屋を上下に分けて、二家族が暮らしていた。だから、基本的に立つことができない!
渡さんの父である高田豊さんはニコヨンになった。日雇い労働者である。
小学生の渡さんも、紐に磁石をつけて道を歩いて、くっついた金属品を売ったりした。

新聞配達もした。11歳の少年には、山口二矢による社会党浅沼稲次郎刺殺の一面が脳裏に残った。
山口二矢は当時17歳、高田渡より6歳年長だ。
赤尾敏大日本愛国党をやめた直後、10月12日、日比谷公会堂で演説する浅沼目掛けて、まるで隠密のごとく素早く壇上に上がり、暗殺を決行した。
この年の6月には、同じく社会党河上丈太郎が右翼少年に襲撃されていた。
逮捕された山口は、少年鑑別所の監獄で、歯磨き粉で《七生報国 天皇陛下万才》と書いて、自ら命を絶った。
日本の政治的テロルの最後の存在だったのかもしれない。
以降は、相手を殺さない自決が主流となり、さらにはカルト宗教の妄信的テロルに変わっていく。
いまとなっては、思想も何もない、「相手は誰でもよかった」という通り魔やストーカー殺人ばかりになってしまった。

しかし私がここで重要視したいのは、暗殺決行の8日前に、山口二矢アコーディオンを探しているときに、脇差を見つけた事実である。
もし彼の家にそんな物騒なものはなく、そのままアコーディオンを無事に見つけていたのなら、もしかして彼は、極端な思想を持ちつつも、素晴らしい音楽家になっていたかもしれない。
高田渡がギターを見つけたように、山口二矢アコーディオンを見つければよかった。
浅沼稲次郎もまた天皇を愛した政治家であった。
それに、右翼に転向する前の赤尾敏が三宅島で展開していた新しき村運動にも関係していた。
しかし同時に、浅沼稲次郎の遠縁の親戚、浅沼美智雄は、愛国党の人間である。
人の世はまこと複雑に絡まり合い、言葉を尽くしたところで説き明かせない境地がある。
でもそうしたところに高田渡は存在しない。
彼はただ、生活費のために新聞を配っていただけだ。

ある日、ガキ大将に怪我をさせられ、渡さんは怒って椅子を振り上げた。そして二人は友達になった。
彼の家に招かれた。そこは在日朝鮮人の集落だった。
みんな貧乏だった。 ほんとうに、みんなが貧乏だった。
けれどそんな中で渡さんは、貧しく差別されながらも明るく生きる在日コリアンたちの生き様を、しっかりと見た。
そうやって、高田渡という人物はできていった。
そんな渡さんと豊さんには、学生たちの60年安保闘争の騒乱も、山口二矢浅沼稲次郎暗殺事件も、冷めた目で見るしかなかったかもしれない。いや、11歳の少年にそれは言い過ぎか。
とにかく、日本各地に運動は広がり、6月15日にその盛り上がりは頂点に達した。
渡さんのお兄さんたちはデモに行っていた。部屋でラジオを聞く渡さんと豊さん。兄たちは帰って来なかった。
18日になって、渡さんと豊さんはデモを《見学》に行った。参加ではなく、あくまで見学である。
後年、ライヴで渡さんは「あー、やってるな、って父親と見に行った」と話しているが、自伝「バーボン・ストリート・ブルース」では、「とにかく歩き、わけもわからず叫んだ」と記されている。
親子は手をつないで塩崎荘に帰った。お兄さんたちは翌朝、戻ってきたそうだ。

読売アンデパンダン展」で出会った赤瀬川原平、吉村益信、篠原有司男、そして荒川修作らが、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成し、規制の芸術の破壊、すなわち《反芸術》を次々と目論んだ。
それは東京都美術館爆破計画にまで行き着く勢いだった。
やはり、アートを忘れた政治よりも、政治を取り戻したアートのほうが強固である。

錆びついた鉛みたいな風が吹き抜ける東京のあちこちで、西田佐知子の歌う「アカシアの雨がやむとき」が流れていた。
その歌は、安保闘争に疲弊した学生たちの心境と重なり、支持された。
アメリカではピート・シーガーらによって、「勝利を我らに(We Shall Overcome)」が歌われていたというのに、日本は戦に敗れたあと。でも闘いは疲弊ののちに何度も繰り返された。70年安保、2016年安保・・・。
その未来をまるで「知ってるつもり?」なのか、西田佐知子は「アカシアの雨がやむとき」を歌い、大衆に一時的にカタルシスを与えた。
しかし、11歳の高田渡はすでに知っていたのかもしれない。
雨が降ろうが止もうが、空は空であることを。
「このまま死んでしまいたい」なんて感傷的な言葉は、当時の渡さんにどう聴こえたのだろうか。
ちなみに西田佐知子のほかのヒット曲に「コーヒールンバ」のリメイクがある。この歌はのちに井上陽水が独特にカバーする。そして渡さんはのちに「コーヒーブルース」という名曲を生む・・。
《一杯のコーヒーから恋の花咲くこともある》と1939年に歌ったのは、霧島昇とミス・コロムビアだ。当時の流行歌が、喫茶店文化の隆盛を示している。
高田渡もまた、若かりし頃に新宿の風月堂に入り浸った時期がある。まだ酒の味を知らないときの、知られざる小さな物語。

 

人生の最初っからリアルなブルーズマンだった渡さん。
まだ、《自分の音楽》には出会っていない。

 

安保闘争の中、国会正門前で警官の鉄棒により死亡した樺美智子の葬儀集会に、のちに渡さんと懇意になる詩人、金子光晴の姿があったという。

 

緒川あいみ