フォークソング・クロニクル

うたと文化の一万年史

第9回 1966年、最初のフォークシンガー登場!そしてあらゆる価値観の音楽が交差する

 

1966年、最初のフォークシンガー登場!そしてあらゆる価値観の音楽が交差する

 

ザ・ビートルズが来日した1966年。
ウルトラマンが放送開始、サッポロ一番しょうゆ味が発売、週刊プレイボーイが発刊。
常磐ハワイアンセンターに夕陽が沈むとき、煙草のわかばを吸っていたのは、人口が1億人を突破した日本人のうちの誰かだろう。
フォークソングとは何か。
フォークソング・クロニクル」では、この世のすべての歌をフォークソング(=みんなのうた)としつつ、多義的ではあるが、アメリカのフォークソングに影響を受けて日本語で歌い出した人々をフォークシンガーと定義する。
昭和41年、尻石友也という名の青年が、7月に大阪のYMCAでギターを持って歌った。
演歌師の添田唖蝉坊の歌や、丸山明宏の「ヨイトマケの唄」を弾き語っていた。
アメリカのフォークソングの精神を受け継ぎながら、日本ではこういう歌が民衆の歌なのだと理解するその過程は、性格こそまったく違うが、高田渡とよく似ている。
10月の「第2回フォーク・フォーク・フォーク」で、アートプロモーションの秦政明に発見され、二人はタッグを組んだ。
そして高石友也として12月20日に、「かごの鳥ブルース」でレコードデビューする。
彼は労働者であった。
高石友也は、労働者だからフォークソングを歌ったのだ。
8歳で故郷を離れた高田渡だからこそ、アメリカのフォークソングを受信したように。
すべての個人の出自は、世界を紡ぐためにある。

 かごの鳥でも 翼があれば
 飛んでゆきたい 青い鳥
 それもかなわぬ わたしゆえ
 ああ 涙もかれて かごの中

 「かごの鳥ブルース」詞:水島哲 曲:不詳 唄:高石友也(1960 / ビクター)

半ば詠み人知らずの歌に、抑圧された民衆の心情を重ねあわせている。
秦政明は高石音楽事務所を設立。フォークソング運動が始まる。
高石音楽事務所には、ザ・フォーク・クルセダーズ岡林信康中川五郎五つの赤い風船高田渡遠藤賢司、ジャックスといった癖のあるシンガーたちが所属していき、のちに音楽舎と名を変える。
1969年には日本で最初のインディーズのレコードレーベル、URCアングラ・レコード・クラブ)が発足。
資本主義も、既成概念も、そしてレコ倫を向こうにして、高田渡友部正人加川良はっぴいえんど、とにかくすごいフォークや日本語ロックがレコード化された。
しかし、秦政明とシンガーたちのあいだには、世代的なずれもあった。
赤いキャデラックに乗り、黒メガネをかけた、マネージャーらしいマネージャー。
馬主であり、馬に「シングアウト」と名前をつける。シングアウトとは、歌手も客もみんなで歌うこと。
のちに経営するスナックの店名は「クルセイド」。ザ・フォーク・クルセダーズでひと儲けしたからだ。
うたごえ運動の世代と、戦後まもなくに生まれたフォークシンガー世代とは、社会に対するファイティングスタイルが違うということかもしれない。
高田渡は、ギャラ支払いに関する不正に抗議して、事務所をやめている。

 愛と平和を歌う世代がくれたものは
 身を守るのと知らぬそぶりと悪魔の魂
 隣の空は灰色なのに 幸せならば顔をそむけてる

 「真夜中のダンディー」詞・曲:桑田佳祐 唄:桑田佳祐(1994 / ビクター)

この同じ年、一方で、和製フォークと呼ばれた人たちもいた。
モダン・フォーク・カルテットのマイク眞木は、ソロ名義で「バラが咲いた」を発表した。
ブロードサイド・フォーは、テレビドラマの主題歌として「若者たち」を発表。
あるいは翌年には、森山良子が「今日の日はさようなら」でレコードデビュー。
何をもってフォークソングとするかは、つねに命題的な疑問として横たわってきた。
アコースティックギターを弾きながら歌を歌えば、それはフォークソングなのか。
そもそもフォークソングとは民謡という意味である。
ならばアメリカでフォークソングやブルーズが発生していった歴史に敬意を持ちつつ、日本に暮らす表現者が独自のスタイルに昇華させたものをこそ、フォークソングというべきではないのか。
しかし、そんなことを言っても、ギターを持って歌う者たちは、あまねくフォークシンガーと呼ばれてきた事実があるのである。
立川談志の言う通り、《現実は事実》なのだ。

 いまも昔も変わらないはずなのに
 なぜこんなに遠い
 ほんとのことを言ってください
 これがボクらの道なのか

 「これがボクらの道なのか」詞・曲:西岡たかし 唄:五つの赤い風船URC

ただし高田渡は、「和製フォーク」と称されたマイク眞木黒澤久雄、森山良子といった人たちを、お坊ちゃんたちと揶揄した。
実際、マイク眞木は舞台美術家の真木小太郎の、黒澤久雄は映画監督の黒澤明の、森山良子はジャズトランペッターの森山久の、それぞれ子供である。
生まれのことを言うのはよくないが、しかし、アメリカのフォークシンガーたちが持つ泥臭さや社会性に対しての共感はあまりなかったのではないか。
それよりも、バンドやオーケストラがなくとも、ギター一本で歌手という表現ができるということに、かっこよさを見たのではないか。
8歳で故郷を捨てた高田渡が、ウディ・ガスリーピート・シーガージョーン・バエズ、そして初期のボブ・ディランに傾倒したのとは、まったく趣きが異なる。
いや、高田渡ほどの出自ではなくとも、フォークソングに憧れたほとんどの若者たちは、マイク眞木や森山良子になれるわけもなく、もっと街の埃風の中で自分の表現を探していたはずである。
だから、60年代後半に、商業的なシーンで光のあたった和製フォークと、何かが変わるかもしれないという空気の中で自然発生的に勃興した関西フォーク、そしてそれに続いた世代とが、存在したのだ。

 湘南ボーイのおぼっちゃまのようによ
 俺たちもエレキがほしかったんだよ
 それこそやっとのバイトで買えたのが
 2500円のフォークギター

 「フォークシンガー」詞・曲:なぎら健壱 唄:なぎら健壱(1983 / CBSソニー

この「フォークソング・クロニクル」では、この世のすべての歌はフォークソングとしつつも、ウディ・ガスリーピート・シーガーボブ・ディランURCやベルウッド、全日本フォークジャンボリー春一番コンサートといった事柄を語るときは、多義的になってしまうが、やはり高田渡のような人をフォークシンガーと呼ぶことにしたい。
マイク眞木も森山良子も日本ポップス史に名を刻むシンガーではあるが、あるいは南こうせつさだまさし松山千春といった歌謡曲的価値観の中で活躍するシンガーもいるが、しかし、高田渡のような土着性を持った歌い手たちが確かに存在する以上、フォークシンガーという呼称は高田渡のような者のためにあると思う。
あまり呼称や分類にこだわることは差別に繋がるが、いま一度、フォークという言葉の意味について考えるきっかけをつくるために、長々と書いてしまった。
緒川あいみ、差別はよくない!差別はやめろ!
そうだ、歌を歌う人はみんなフォークシンガーなんだ。
美空ひばりも、三橋美智也も、桑田佳祐も、忌野清志郎も、森高千里も、添田唖蝉坊も、この世に生きる人はみんな、歌を歌っているのである。

 歌も楽しや 東京キッド
 いきでおしゃれで ほがらかで
 右のポッケにゃ夢がある
 左のポッケにゃチュウインガム
 空を見たけりゃビルの屋根
 もぐりたくなりゃマンホール

 「東京キッド」詞:藤浦洸 曲:万丈目正 唄:美空ひばり(1950 / 日本コロムビア
 
かくして60年代後半のフォークソングの時代が始まった。
それは日本語ロックや、あるいは社会運動とともに進んだ。
そしてわずか数年のうちに、商業主義にフォークソングなる概念を換骨奪胎されてしまった。
しかし、最初のフォークシンガーたちは歌い続けた。

 何もかも昨日のつづき
 人生はさっぱりするときがない
 ああ いつになったら
 うっとうしい色恋沙汰がなくなるのだろう
 さもなければカネの話

 いつになったら
 人の腹を汚す そんなこすっからい
 目つきがなくなり
 自分勝手の正義を振り回さずに済むのだろう
 いつになったら法律がなくなるのだろう

 「いつになったら」原詩:金子光晴 曲:高田渡 唄:高田渡(1972 / ベルウッド)

美川憲一が「柳ヶ瀬ブルース」を唄い、西郷輝彦が「星のフラメンコ」を唄っていた。
園まりは、最初の「夢は夜ひらく」。
GS(グループ・サウンズ)バンドも続々と活動を始めた。
60年代後半は、様々な価値観の音楽が交差していった瞬間だ。
しかし、ただ言えるのは、荒木一郎が「空に星があるように」と唄ったところで、高石友也岡林信康高田渡にとって、星どころの話ではなかったのである。
履き違えられた個人主義と安易に消費されるコンテンツの氾濫する現代からはもはや靄の向こうのまぼろしだが、ばかげた高度経済成長の中で、確かに文化があったのだ。
6月22日、三里塚闘争、はじまる。いまも闘いはつづく。

 ふりむかないで
 お願いだから
 いつも腕をくみ
 前を向いて きっとね
 しあわせ つかみましょ

 「ふりむかないで」詞:岩谷時子 曲:宮川泰 唄:ザ・ピーナッツ

そういえば、映画「タカダワタル的」が上映されているとき、私はテアトル新宿で、高田渡に会いに来た高石友也を見たことがある。
そのときはすごく鋭い顔をしていた印象だったが、その後、私もお世話になった京都のフォークシンガー、藤村直樹のさいごのライブにあらわれた高石友也は笑顔をほころばせていた。
きっと高石友也高田渡は、かんたんにはステージで共演できない、親分同士だったのだろう。
人間、器が大きいことに越したことはない。

 It’s been a hard day’s night,
 and I’d been working
 like a dog
 It’s been a hard day’s night,
 I should be sleeping
 like a log
 But when I get home to you
 I find the things that you do
 Will make me feel alright

 「A Hard Day’s Night」lyric & music by Lennon &McCartney song by The Beatles

最初のフォークシンガー高石友也の登場の至近距離で、アマチュアのフォークバンド、ザ・フォーク・クルセダーズがこの世のすべてを歌でまじめに茶化していた。
昭和41年が暮れる。

 


text by 緒川あいみ(れいたぬ)

*参考図書
「雲遊天下」34(ビレッジ・プレス)

 

☆次回予告
第10回は、「」です。

第8回 1965年、最初のシンガーソングライター登場!美輪明宏が見た「世界」


 父ちゃんのためならエンヤコラ
 母ちゃんのためならエンヤコラ
 もひとつおまけにエンヤコラ

 今も聞える ヨイトマケの唄
 今も聞える あの子守唄
 工事現場の ひるやすみ
 たばこをふかして 目を閉じりゃ
 聞えてくるよ あの唄が
 働く土方の あの唄が
 貧しい土方の あの唄が

 「ヨイトマケの唄」詞・曲:美輪明宏(1965)

大塚製薬からオロナミンCが発売され、朝日新聞フジ三太郎が登場し、テレビをつけたら「小川宏ショー」に「11PM」。
オバケのQ太郎がアニメになった昭和40年。
でも1965年のお話に行く前に、フォークソング・クロニクルの時計は、いくらか巻き戻されてから、チクタクと確かに静かに針を進めていく。
ちょっと戻って、ときは1935年から。
長崎の遊郭街「丸山遊郭」でうまれた美少年。
カフェー「世界」で、世界を見てた。
色事の世界で、夕暮れ空を見てた。
そして戦争。
10歳のとき、原爆が堕ちてきた。
丸山明宏、おうちで御伽草子の絵を描いてた。

 We'll meet again
 We'll meet again
 Don't know where
 Don't know when
 But I know we'll meet again some sunny day
 Keep smiling through
 Just like you always do
 Till the blue skies drive the dark clouds far away

 「We'll Meet Again」詞・曲: Ross Parker, Hughie Charles 唄:Vera Lynn(1939)

映画「博士の異常な愛情」のラストで、きのこ雲の映像に合わせて、ヴェラ・リンの「We'll Meet Again(また会いましょう)」が流れ出す。
あるいは今村昌平の映画「カンゾー先生」のラストシーン、柄本明麻生久美子が船を漕ぐうしろで舞い上がるきのこ雲。
1945年、第二次世界大戦終結する。
昭和天皇玉音放送、正直、何を言っているのかはよくわからない。
ただ、戦争が終わったらしい。

 A very Merry Xmas
 And a happy New Year
 Let's hope it's a good one
 Without any fear
 War is over!
 If you want it
 War is over! Now!

 「Happy Christmas(War Is Over)」詞:LENNON JOHN WINSTON 曲:LENNON YOKO ONO 唄:John & Yoko(1971)

時は流れ、1952年。
17歳の丸山明宏は新宿でホームレス。
銀座7丁目の「銀巴里」の美少年募集の貼り紙見つけ、性別年齢国籍不詳の歌手となる。
文化人たちと対等なコミュニケーション、まさに丸山明宏は異世界からやってきたマレビトだ。
1957年に「メケ・メケ」を日本語で歌い、人気を博す。
以降も、単にシャンソンをそのまま歌うのではなく、自作の歌を拵えていった。
発症した原爆症に悩まされながらも、そのとき確かに、戦後日本で最初のシンガーソングライターが誕生していったのだ。
そして1964年にステージで初めて披露し、翌1965年にレコード化したのが、「ヨイトマケの唄」だ。
きらびやかなシスターボーイが、過酷な肉体労働者たちの歌をつくる。
現実社会を、厳しく貧しい暮らしを、ありのままに歌う。
それはフォークソングの原点である。

 北から南からいろんな人が
 毎日家を離れ
 夜汽車に揺られはるばると
 東京まで来るという
 

 銭がなけりゃ きみ
 銭がなけりゃ
 帰ったほうが身のためさ
 あんたのクニへ

 「銭がなけりゃ」詩:高田渡 曲:Wondy Guthrie 唄:高田渡

しかし、戦争は終わっていないのである。
1950年の朝鮮戦争が起こったことにより、日本はアメリカからのさまざまな発注により軍需景気を享受した。
1955年にベトナム戦争が起これば、日本から米軍機が飛び立っていく。
いったいどこが平和国家と言えるのか。確かに中身は平和でも、じゅうぶんに戦争に加担しながら、高度経済成長も何もかもを進めていったじゃないか。
ヨイトマケの唄」がリリースされた1965年には、アメリカは北爆を開始。ベトナム戦争は激化していく。
東京では小田実らが「ベトナムに平和を!市民連合」を旗揚げ。
ときは60年安保と70年安保の中間地点。

 平和にあこがれ 僕等は育った
 ゲバ棒 竹やり ヘルメット
 パイプ爆弾 ダイナマイト
 今日も明日も 闘い続ける
 僕等の名前を 覚えてほしい
 戦争しか知らない子供達さ

 「戦争しか知らない子供たち」唄:頭脳警察

ところで、1960年代始めに出現した最初のシンガーソングライターは、丸山明宏だけではない。
東宝の映画スター、加山雄三は1961年に「夜の太陽」でデビュー。
1965年には映画「エレキの若大将」の主題歌「君といつまでも」をリリースしている。作詞は岩谷時子だが、曲を弾厚作、すなわち加山雄三が書いている。
丸山明宏が土方やその子供たちの視線で「ヨイトマケの唄」を歌っていたとき、上原謙の息子である加山雄三は「君といつまでも」歌っていたのだ。
茅ヶ崎の星空から都心の青空まで、腕をめいっぱいに広げ、「しあわせだなぁ~」なんて笑っていたのである。
歌は世につれ世は歌につれ、どのような歌も大衆のものだ。
土と風の匂いがするフォークソングやブルーズも、砂浜や舗道の記憶よみがえるポップチューンも、どちらもひとしく歌であろうと思う。
それぞれのシンガーに、天から与えられた役割があるのである。

 ふたりを夕やみが つつむこの窓辺に
 あしたもすばらしい しあわせがくるだろう

 君のひとみは 星とかがやき
 恋するこの胸は 炎と燃えている
 大空そめてゆく 夕陽いろあせても
 ふたりの心は 変らない いつまでも

 「君といつまでも」詞:岩谷時子 曲:弾厚作 唄:加山雄三 

高田渡は、著書「バーボン・ストリート・ブルース」で、嫌いな人物として、三島由紀夫小田実を挙げている。
美輪明宏と懇意だった三島由紀夫も、高田渡にかかれば、自己顕示を曝し、若者を道連れにした者として、あの熱くも冷めた目でトドメをさされる。
そして小田実も、自分は安全な場所にいながら威張っている存在として、熱くも冷めた目でトドメをさされるのである。
右か左かではない、高田渡はひとりで真ん中を歩き続けた。
1965年当時は高田渡、16歳。
5月9日、日本アイスクリーム協会は「アイスクリームの日」を制定する。
のちに高田渡が晩年まで歌いつづける「アイスクリーム」は粋な猥歌である。
魔術のようなギターの旋律で始まり、歌い出すと、あっというまに終わってしまう。
高田渡は実質、ウディ・ガスリーより、柳家三亀松に近いところにいる。

 アイスクリーム
 アイスクリーム
 アイスクリーム 私の恋人よ
 あんまり長く放っておくと
 お行儀が悪くなる

 「アイスクリーム」詩・曲:高田渡 唄:高田渡

この年、ブルーボーイ事件、起きる。
男娼さんたちの中で、性転換手術(現在で言う性別再適合手術)を望む人たちは、女性器のあるカラダになって商売を続ける。
それは警察にとって苦々しい状況であり、1964年に3人に手術を施した医師が、年が明けて逮捕されてしまう。
これが世に言うブルーボーイ事件
言わば、ゲイとトランスジェンダーの境界線が発生した瞬間かもしれない。
のちに、性同一性障害という医学上の分類がうまれ、精神科医の診断がなければ手術はできないというルールがつくられる、大きな要因となる。

 俺のあん娘は男が好きで
 いつもンフフフフフ
 おいらのことなんかほったらかしで
 いつもンフフフフフ

 あんたがあたいの寝た男たちと
 夜が明けるまでお酒飲めるまで
 あたい男やめないわ
 ウフフフフフフフ

 「プカプカ」詞・曲:象狂象 唄:西岡恭蔵

丸山明宏はその後、寺山修司天井桟敷で女優となり、さらに70年代に入り、天の啓示を受け、美輪明宏へと金色の光をもって紛れもなく誰とも違う個人として、現世にオーラを放つ。
もはや、すべての境界線は取り払われた。
21世紀の世界において、われわれはいつまで人間のふりをして、それでいて人間になれないままなのか。
美輪明宏の歌う「シャンソン」とは、フランスの大衆的な歌謡曲であり、つまりは歌という意味の言葉だ。
謡曲、民謡、フォークソングシャンソン。どれもまったく同じ意味である。
人は、自分自身のカラダがつくりだす影を、自分自身で背負ったまま、都市で、農村で、田園で、森林で、そして港町で、自分自身の歌を歌う。

 時は過ぎて汽笛が鳴る 来るときが来ました
 男は立つ女すがる 引きずられながらも
 想い出の石だたみに 投げ出される女よ
 船をめざし走る男 叫ぶ女をすてて

 メケメケ バカヤロー 情なしのケチンボ
 メケメケ 手切れの お金もくれない

 あきらめて帰ろ やがて月も出る港

 「メケ・メケ(ME-QUE ME-QUE)」原詩:Charles Aznavour 曲:Gilbert B?caud 日本語詩:丸山明宏

 


text by 緒川あいみ(れいたぬ)

第7回 1964年、フォークソングは詠み人知らず?!マヒナスターズとボブ・ディラン!

 富士の高嶺に降る雪も
 京都先斗町に降る雪も
 雪に変わりはないじゃなし
 とけて流れりゃ皆同じ

 「お座敷小唄」詞:不詳 曲:陸奥明 唄:和田弘とマヒナスターズ松尾和子

ビートルズが初めてアメリカの土地を踏み、マルコムXがアフロアメリカン統一機構を結成し、バチカン経口避妊薬の使用を非難する声明。
トンキン湾事件をきっかけにベトナム戦争は激化し、日本では東京オリンピックが催される中、月刊漫画ガロと平凡パンチが創刊し、ゴジラモスラは銀幕の中で高度経済成長の矛盾の象徴として降臨した。
現在は差別を扇動するチャチな連中が青林堂の看板で儲けているが、ほんとうの青林堂は1962年、それまで貸本漫画の出版社をやっていた長井勝一が、白土三平の「カムイ伝」を世に送り出すために設立した。
長井勝一はのちに、高田渡友部正人らがあつまる吉祥寺のライブハウス「ぐわらん堂」によく顔を出した。

 つげ忠男がかっこよくって
 ぼくらは無頼を気取っていた
 材木で目隠しされた青林堂
 そんなぼくらの憧れの場所
 床に積み上げられたつげ忠男
 持っていっていいよと一冊くれた
 しばらくお会いしていませんね
 長井さん

 「長井さん」詞・曲:友部正人 唄:友部正人

代々木のあかつき印刷で文選工として働きながら、高田渡はお兄さんたちの影響でアメリカのフォークソングに傾倒していった。
ある日、音楽評論家の三橋一夫が著した「フォーク・ソング」という本と出会い、渡さんは様々な魅力的な遥かアメリカのシンガーたちへの知識と共感を深める。
そして思想と行動が分離しない渡さんは、アポイントを取らずに三橋一夫を訪ねる。
三橋一夫は1928年に生まれ、滝野川第七尋常小学校澁澤龍彦と同窓だった。東京高等師範学校を卒業後、教師となるが退職、人形劇団プークの文芸部員、雑誌編集者を経て、音楽評論家となった。
「フォークってなんだ」「ぼく、雑音が大好きです」「60年代のボブ・ディラン」と音楽関係の本を書く。
故郷を知らない高田渡は、渡米してピート・シーガーの弟子になろうと腹を決めていた。そのためにまず手紙を送りたいから住所を教えてほしいと三橋さんに言う。
かくして海を越えて手紙はピートの旦那に届けられた。そして返事が返ってくる。きっと渡少年は、英語をまだ話せないことを正直に書いたのだろう。「英語を勉強してからおいで」と、優しい便り。
高田渡は後年、永山則夫の「手紙を書こう」という詩を歌にしている。「宛名のない手紙を書こう」と静寂の中で歌うが、ピート・シーガーからは確かに返事が来たのだ。

 宛名のない手紙を書こう
 いつまでもいつまでも世の中を
 ぐるぐる廻りして還らない

 「手紙を書こう」詩:永山則夫 曲:高田渡 唄:高田渡

浜口庫之助吉田正の弟子として、日本音楽史の継承者たる和田弘。
1954年に結成され、高田渡が8歳にして故郷を旅立った1957年にデビューした「和田弘とマヒナスターズ」。ハワイアンとムード歌謡がかさなる宇宙の爆発点。
そして1964年に、「お座敷小唄」は300万枚以上の大ヒットを起こした。当時流行していたドドンパのリズム感が曲にメリハリをつける。
キャバレーのホステスが口ずさんだ歌のひと節をすかさず聴き取り、楽曲化した和田弘の姿は、まるでアメリカでフォークソングやブルーズを発見し採譜していった人々のようである。
ゲストボーカリストには、松尾和子を迎えた。
そしてその発表された「お座敷小唄」に対して物言いがつくのも、商業作品化された民謡の宿命である。
我こそは「お座敷小唄」の作者であると訴訟が続き、最終的には本物の原作者まで判明する。
フォークソングは詠み人知らず。実際に詠み人がいたとしても、大衆のものとなった瞬間に、精神的な意味における著作権は透明化する。
そして、《フォークソング》と《歌謡曲》が同じ意味の言葉となる。

 あなたの過去など知りたくないの
 済んでしまったことは仕方ないじゃないの
 あの人のことは忘れてほしい
 たとえこの私が聞いてもいわないで

 「知りたくないの」詞:H.Barnes 曲:D.Robertson 訳:なかにし礼 唄:菅原洋一

この年、ボブ・ディランはシングル盤は出していないが、1月13日にアルバム「時代は変る」をリリースした。
激動の時代の中で、若き指導者として支持されながら、当人は同世代との心理的な共有を持っていなかった。
大衆はディランの歌に「いいね!」をしたが、ディランは過去のウディ・ガスリーロバート・ジョンソンに、もっと言えば自分自身に対してのみ「いいね!」をしていたのである。
The Times They Are a-Changin'(時代は変る)」は高石友也によって日本語で歌われた。
「North Country Blues(ノース・カントリー・ブルース)」は、中川五郎がそのメロディに自分自身の悲哀を載せ、「受験生ブルース」として作品にした。そしてそれは高石友也によって明るく軽快な曲調でさらに変化しヒットした。
フォークソングは詠み人知らず。変わり続けながら、風や雨のように人々に伝わっていく。

 Come gather 'round people
 Wherever you roam
 And admit that the waters
 Around you have grown
 And accept it that soon
 You'll be drenched to the bone.
 If your time to you
 Is worth savin'
 Then you better start swimmin'
 Or you'll sink like a stone
 For the times they are a-changin'

 「The Times They Are a-Changin'」詞・曲:Bob Dylan 唄:Bob Dylan

 あなたのまわりをごらんなさい
 あたりの川は水かさを増して
 あなたは水底に沈められ押し流されてゆく
 溺れる前に泳ぎ始めよう
 時代は変わってゆく

 「時代は変わる」詞・曲:Bob Dylan 訳:高石友也 唄:高石友也

時を経て、分裂騒動のあと、2002年に和田弘の前にあらわれた中性的な若者は、田渕純という芸名を受け、マヒナスターズに加入する。
和田弘最後の弟子は、幼い頃から憧れていた師が人の姿から音楽そのものへ昇華するまでの2年間、確かにまさしくマヒナスターズのメンバーだったのだ。
そして田渕純はスナックや酒場を流し、いまはタブレット純としてステージに立っている。
タブレット純さんは、ムード歌謡漫談という新境地を開きながら、音楽の黄金時代を伝承する歌手として貴重な立ち位置で、芸能とは本来何だったのかをその存在感で知らしめている。
しかしいまはそんなことより、1964年の物語だ。

 そんなことより気になるの
 まだ沼袋のアパートにいるんですか
 ちゃんと栄養あるもの食べているんですか
 この問題に答えがあるとしたなら
 そろそろ夕餉のお買いものに行かなくてはなりません

 「そんな事より気になるの」詞・曲:タブレット純 唄:タブレット

昭和を生きた芸人たちの多くが、幼い頃から芸事に親しんでいた。
アンコ椿は恋の花」を歌う都はるみの、虚空より花を掴み取るがごとくスピード感あふれるハイパーメリスマは、それはもう天の声、仏の声、やさしく降りそそぐ甘露の雨のごとしではないか。
何せB面が「恋でゴザンス港町」。ゴザンスなのである。
ゴザンスを前にして我々は歌い踊るしかないじゃないか?!

 三日おくれの便りをのせて
 船が行く行くハブ港
 いくら好きでもあなたは遠い
 波の彼方へ行ったきり
 アンコ頼りはアンコ頼りは
 ああ片便り

 「アンコ椿は恋の花」詞:星野哲郎 曲:市川昭介 唄:都はるみ

「皆の衆」をリリースした村田英雄は、4歳のときから浪曲師だった。
浪曲浪花節はまさに日本のフォークソング
歌うことと語ることは本来、渾然一体とあらねばならない。
劇と語りと節回し、浪曲師とフォークシンガーは同じ形態の芸能と言える。
60年代の日本に暮らすあらゆる人々、そのひとりひとりに、村田英雄は「皆の衆、皆の衆」と語りかける。
もしかしたら「皆の衆」と言えたのは、そんな歌が受け入れられたのは、人間社会を形成するのが個人主義だけではないことを皆がわかっていた時代だからかもしれない。
だいたい、「腹が立ったら空気をなぐれ」である。何たる破壊力。理屈よりも大切なものがある。
副作用ばかりの抗鬱薬より、現代人に必要なのは一編の物語を信じる力である。

 皆の衆 皆の衆
 嬉しかったら腹から笑え
 悲しかったら泣けばよい
 無理はよそうぜ体に悪い
 洒落たつもりの泣き笑い
 どうせこの世はそんなとこ
 そうじゃないかえ皆の衆

 「皆の衆」詞:関沢新一 曲:市川昭介 唄:村田英雄

初めて高田渡が楽器を持った1964年。初めてドレミファソラシドを奏でた1964年。
ウディ・ガスリーのギターには「THIS MACHINE KILLS FASCISTS」と書いたステッカーが貼られてあったが、そうしたメッセージは《生活》を伴ったものだ。そしてその《生活》は底辺の経験を含んだものであり、少年時代の一家離散から始まるガスリーの放浪人生は何よりも人間の《生活》そのものであり、だからこそ歌が生まれた。
「生活の柄」へと紡がれていく、歴史の糸。

 歩き疲れては
 夜空と陸との
 隙間に潜り込んで
 草に埋もれては寝たのです
 所かまわず寝たのです

 「生活の柄」原詩:山之口貘 曲:高田渡 唄:高田渡

 

 

text by 緒川あいみ(れいたぬ)

第6回 1963年、長崎外人墓地を唄う春日八郎、東京五輪を唄う三波春夫、海の向こうはワシントン大行進!

 恋の涙か 蘇鉄の花が
 風にこぼれる 石畳
 うわさにすがり ただひとり
 尋ねあぐんだ 港町
 ああ ああ 長崎の女

 

 「長崎の女」詞:たなかゆきを 曲:林伊佐緒 唄:春日八郎

 

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昭和38年。
レコードプレーヤーに針を落とせば、春日八郎が長崎外人墓地に物語を彩らせていた。
1954年に「お富さん」が大ヒットした春日八郎の、この年の名曲だ。
朗々としたうたごえが、聴く者の脳内にドラマを浮かび上がらせる。
ブラウン管の中では鉄腕アトムが近未来を飛翔していた。日本で最初の国産テレビアニメだ。
手塚治虫のアニメーションづくりのスタイルは、現在の低賃金の過酷な労働状況へと繋がり、宮崎駿は折にふれ批判してきた。
そしてそれは手塚治虫が最も身にしみていたことだった。「フィルムは生きている」ことを知っているのは、漫画の父でありアニメーションの父でもある手塚自身なのだから。
しかしアトムはまさに戦後日本の、そして21世紀日本を象徴するようなキャラクターだ。
みずからが原子力で稼働し、なおかつ人間の行き過ぎた科学に対し、その身をもって警告している。
当時の日本人はみんな、原子力を未来の素晴らしいエネルギーと信じていた。
原子爆弾で滅ぼされた国家を、原子力発電で取り返そうとしたのか。
主題歌を作詞したのは、詩壇のポップスター谷川俊太郎

 

 空をこえて ラララ
 星のかなた
 ゆくぞ アトム
 ジェットのかぎり
 心やさしい ラララ
 科学の子
 十万馬力だ
 鉄腕アトム

 

 「鉄腕アトム」詞:谷川俊太郎 曲:高井達雄 唄:上高田少年合唱団

 

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春日八郎の歌はものすごくうまい。
外人墓地の路地を歩いている誰かの像が、くっきりと立ち現れる。
かつて、歌とは物語だったのだ。
アジアの端に位置する島国たる日本は、古来より海の向こうから森羅万象を享受してきた。
外人墓地に眠る多くの人々が描いた人生のストーリーも、稲作文化も、仏教も、キリスト教も、ジャズも、コメディも、ロックンロールも、フォークソングも、すべては海の向こうからもたらされた。
「長崎の女」、素晴らしい一編の歌。
長崎は今日も雨だった」がリリースされるのは1969年。
まだ長崎の石畳に雨は降っていない。
墓地を濡らすのは、涙だけ。

 

 あなたひとりに かけた恋
 愛の言葉を 信じたの
 さがし さがし求めて
 ひとり ひとりさまよえば
 行けどせつない 石だたみ
 あゝ 長崎は今日も雨だった

 

 「長崎は今日も雨だった」詞:永田貴子 曲:彩木雅夫 唄:内山田洋とクールファイブ

 

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"I have a dream!!"
8月28日、キング牧師が聴衆に叫んだ。
人種差別撤廃を願うワシントン大行進は、20万人を超える参加者でいっぱいだ。
リンカーン奴隷解放宣言から100年経っても、黒人差別は依然としてあった。
ジョーン・バエズ、ピーター・ポール&マリー、ハリー・ベラフォンテら歌い手たちも参加した。
その中に、ボブ・ディランも当然いて、朴訥として気難しい表情をした彼の弾き語りは、差別を憎む大衆に受け入れられた。
しかしディランは、その場においては確かにプロテストシンガーだったが、実際はどのような役割や枠組みにも収まりきらないスピリットを持ったポップスターだった。
そのジレンマや世間との心理的な乖離は、数年後の日本で岡林信康がよく似た経験をすることになる。
大衆はスターを求めている。
しかしスターは大衆だけでは満ち足りない。
ディランの「風に吹かれて(Blowin' in the Wind)」は、ベトナム戦争下において世界を席巻したシンプルな名曲だが、ここではそのB面の「くよくよするなよ(Don't Think Twice, It's All Right")」を聴いてみたい。
この曲は、友部正人が日本語に意訳して歌っている。

 

 いまさら名前を呼ばないで
 呼んだことなんてないでしょ
 いまさら名前を呼ばないで
 呼んでももう聞こえない

 決心するまでにはずいぶん悩んだわ
 一度は好きになった男
 心までは愛しても魂までは無理だった
 でももうあんまりくよくよしないでね

 

 「Don't Think Twice,It's All Right」詞・曲:Bob Dylan 訳:友部正人 唄:友部正人

 

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野村秋介河野一郎邸に火をつけた。
新右翼のボス、一度目の逮捕。
「俺に是非を説くな 激しき雪が好き」。野村の詠んだ、拳銃から弾き出されたような強烈で無駄のない句だ。
のちに出所した野村秋介は今度は経団連事件を起こし、最期には朝日新聞社で自決する。
あるいは年の暮れに、力道山は赤坂のナイトクラブで刺されるのである。
テレビのスイッチをひねれば、相変わらず、坂本スミ子が「夢であいましょう」とささやいている。

 

 夢であいましょう
 夢であいましょう
 夜があなたを抱きしめ
 夜があなたに囁く
 うれしげに 悲しげに
 楽しげに 淋しげに
 夢で 夢で
 君も 僕も
 夢であいましょう

 

 「夢で逢いましょう」詞:永六輔 曲:中村八大 唄:坂本スミ子

 

春日八郎もキング牧師ボブ・ディラン野村秋介力道山も、みんな夢で逢えたのだろうか?
ただ三波春夫は、翌年に開催されるオリンピックを寿ぐように、「東京五輪音頭」なんて朗らかに歌ってた。
赤瀬川原平たちハイレッドセンターが、都市の舗道をごしごし洗浄しているのも知らぬげに。
前衛的な赤瀬川たちの活動は、赤瀬川原平の「全面自供!」に詳しい。
しかし、厳しいシベリア抑留を経験した偉大なる大衆歌手である三波春夫は、ほんとうに心の底から世界の平和を祈願して「東京五輪音頭」を歌っていたに違いないのだ。
芸能と芸術が、ずれを生じさせてきた。
日本のフォークソングが生まれる夜明け前。

 

 ハアー  待ちに待ってた世界の祭り
 (ソレ トトントネ)
 西の国から東から
 (ア チョイトネ)
 北の空から南の海も
 こえて日本へどんときた
 ヨイショ コーリャ どんときた
 オリンピックの晴れ姿
 ソレトトント トトント 晴れ姿

 

 「東京五輪音頭」詞:宮田隆 曲:古賀政男 唄:三波春夫

 

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text by 緒川あいみ

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*参考図書

 

☆次回予告
第7回は、「」です。

第5回 1962年、て~なもんや!街道筋の藤田まこととニューヨークのボブ・ディラン

 雲と一緒に あの山越えて

 行けば街道は 日本晴れ
 おいら旅人 一本刀
 「お控えなさんせ」「お控えなすって」
 腕と度胸じゃ 負けないけれど
 なぜか女にゃ チョイと弱い

 

 「てなもんや三度笠」詞:香川登志緒 曲:林伊佐緒 唄:藤田まこと

 

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ジャニーズ事務所がつくられ、若乃花が引退し、リポビタンDが発売された。
ベトナム戦争の激化、高度経済成長のニッポンから戦闘機が飛んでいく。
秋にはキューバ危機であわや世界核戦争の瀬戸際。
昭和37年。
テレビでは、お笑いがしっかりコメディしていた。
澤田隆治の演出、香川登志緒の脚本。
素晴らしき時代劇喜劇がブラウン管にあらわれる。
あんかけの時次郎こと藤田まこと、珍念の白木みのるが、街道筋をドカドカ歩く。
当たり前田のクラッカー!
でもVTRがまだ高価だった時代で、映像は一部のみ残されている。
最高視聴率64.3%!
てなもんや三度笠」の放映終了後も、「てなもんや一本槍」「てなもんや二刀流」という続編があった。
映画はモノクロが2つ、カラーが3つ制作された。
ぼくはずっと前、シネマ下北沢で1963年上映の「てなもんや三度笠」を観ました。若い日のエキセントリックな財津一郎さんが印象的だった。

 

 ピアノ売ってちょうだい
 もっとも~っとタケモット
 (もっと)でんわしてちょうだい
 もっとも~っとタケモット

 

 「タケモトピアノの歌」詞:北川勝利 曲:谷本奈利絋 唄:財津一郎&タケモット

 

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藤田まことは映画俳優、藤間林太郎の息子としてうまれた。
進駐軍の靴磨き、映画俳優、司会者、歌手、そしてコメディアン。
てなもんや三度笠のあんかけの時次郎から、必殺シリーズ中村主水、はぐれ刑事の安浦刑事剣客商売の秋山小兵衛まで。
笑っていいとも!」のコーナーゲストに出演した際、タモリさんが「藤田さんはコメディアンの大先輩ですから」と紹介すると、顔を俯かせ、「コメディアンのなり損ないです」とおっしゃった。
あんかけの時次郎が渡世人として東海道を旅したように、藤田まことも戦後芸能史の旅をしたのだ。
藤田まことが芸能史の中で島田正吾勝新太郎中村敦夫とすれ違ったように、あんかけの時次郎も東海道国定忠治座頭市木枯し紋次郎とすれ違ったのだ。

 

 「おれたちゃナ、ご法度の裏街道を歩く渡世なんだぞ。
 いわば天下のきらわれもんだ…」

 

 およしなさいよ 無駄なこと
 いって聞かせて そのあとに
 音と匂いの 流れ斬り
 肩もさびしい 肩もさびしい

 

 「座頭市」詞:川内康範 曲:曽根幸明 唄:勝新太郎

 

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そしてテレビは世の中に普及されていく。
この年、日本のテレビ受信者が1000万人を超えた。
そして東京都の人口も1000万人を突破した。
サラリーマンではないクレージーキャッツが、高度経済成長を支えるサラリーマンの悲哀を歌と笑いに昇華する。
クレージーキャッツは、フロントマン植木等のソロ名義で「無責任一代男」「これが男の生きる道」をリリース。バンド名義では「ドント節」で、B面の「五万節」がヒットした。
そして「無責任一代男」のB面「ハイそれまでョ」もヒット、NHK紅白歌合戦に出演している。
映画は「ニッポン無責任時代」と「ニッポン無責任野郎」がスクリーンに掛けられた。
はてさて、21世紀もいくらかを過ぎ、世は責任と理屈の時代。
人々が自ら病気になろうとしているかのような、常識地獄が渦巻いている。
無責任さや非常識さに元気をもらうなんて、頭がおかしいと言われかねない。
しかし人間の脳はそんな数十年では変わらない。
考え過ぎないで素直に突き進む、これに勝る生き方はないのである。
謎のサラリーマン平均(たいらひとし)が東京タワーのてっぺんで笑ってる。

 

 おれはこの世で一番
 無責任と言われた男
 ガキの頃から調子よく
 楽してもうけるスタイル

 

 「無責任一代男」詞:青島幸男 曲:萩原哲晶 唄:植木等

 

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ミネソタうまれのロバートは歌ってた。
ニューヨークにやって来てコーヒーハウスで歌ってた。
3月19日、1枚目のアルバム「ボブ・ディラン」が発売された。
1曲目の「You're No Good(彼女はよくないよ)」は、ジェシー・フラーの曲。若林純夫がソロや武蔵野タンポポ団で歌ったサンフランシスコ湾ブルース」の原曲をつくった人だ。
そして、「Talkin' New York(ニューヨークを語る)」はトーキングブルース、「House of the Risin' Sun(朝日のあたる家)」でトラディショナルな歌の担い手となり、「See That My Grave Is Kept Clean(僕の墓をきれいにして)」は戦前のブルースマンであるブラインド・レモン・ジェファーソンの歌、
「Song to Woody(ウディに捧げる歌)」では敬愛する偉大なるフォークシンガーのウディ・ガスリーに詩を捧げる。
そうだ、ディランはフォークシンガーの末っ子だったんだ。
そしてウディは病院で療養している。
1940年代から度々の誤診の中で、闘病をつづけていた。
高田渡が憧れたゴッドファーザー・オブ・フォークソングは、1967年、永眠する。
ちょうど日本で独自のフォークシンガーたちがあらわれた頃だ。

 

 Hey, Woody Guthrie, but I know that you know
 All the things that I’m a-saying an a-many times more
 I’m a-singing you the song, but I can’t sing enough
 Because there’s not many men that done the things that you’ve done

 

 「Song to Woody」詞・曲:Bob Dylan 唄:Bob Dylan

 

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師はいつも、遠くにいる。
ぼくは高田渡さんが大好きで、三鷹に住んで、晩年という言葉は寂しいけれど、渡さんのさいごのほうのライブに通っていた。
ついにぼくは、いちばん尊敬する人に声はかけないままだった。
声をかける必要がなかったのかもしれない。
間近で見た渡さんの瞳の色はグレーで、どこか世界の深淵を見ているようだった。
彼にはどんなふうに、この世界が見えていたのだろう。
彼にはどんなふうに、出会う人たちの姿が映っていたのだろう。
加川良高田渡の本質を見事に語り歌っている。

 

 何がいいとか悪いとか そんなことじゃないんです
 たぶん僕は死ぬまで 彼になりきれないでしょうから
 ただその歯がゆさの中で 僕は信じるんです
 唄わないことが一番いいんだと 言える彼を

 

 「下宿屋」詞・曲:加川良 唄:加川良

 

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週刊少年サンデーで、赤塚不二夫の「おそ松くん」と「ひみつのアッコちゃん」が連載開始。
2001年に出版された対談集「バカは死んでもバカなのだ」で、唐十郎は赤塚にこう語り出す。
「いまのバーチャル空間は『おそ松くん』だと思います」
「『おそ松くん』はデジタル空間。アナログではない」
「壊れない世界でしょう。で、あそこからEメールが送られてくる」
しかし赤塚は、パソコンとかに一切興味を示さないのだった。

 


text by 緒川あいみ(れいたぬ)

*参考図書

 

☆次回予告
第6回は、「」です。

第4回 1961年、浄土真宗はジャズ!?クレージーキャッツと高度成長

 チョイと一杯のつもりで飲んで

 いつの間にやらハシゴ酒

 気がつきゃホームのベンチでゴロ寝

 これじゃ身体にいいわきゃないよ

 分かっちゃいるけどやめられねぇ

 

 「スーダラ節」詞:青島幸男 曲:萩原哲晶 唄:ハナ肇とクレージーキャッツ

 

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「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
 しかるを世の人つねにいはく、
 『悪人なほ往生す、いかいいはんや善人をや』」

親鸞は、法然上人の説いた浄土往来の教えのさらに先へ辿り、より深く世界の真理を獲得していく。
それがのちに浄土真宗と呼ばれるようになるが、ところで浄土教キリスト教はよく似ている。
悪人正機と原罪。創造主と阿弥陀仏神の国と極楽浄土。
人間の力など大したことはない。他力本願。すべては神様、仏様の名において。
法然の家はユダヤからの移民である秦氏とされており、親鸞西本願寺に保存されていたキリスト教ネストリウス派の経典「世論布施論」を読んでいた。
一遍もまた秦氏であり、「南無阿弥陀仏」とさえ唱えれば誰でも極楽浄土へ行けるのだと説き、被差別階級の民を救済した。
さらに遡れば、空海最澄遣唐使として大陸に渡ったとき、景教と呼ばれていたキリスト教ネストリウス派の洗礼を受けたとされている。
もしかしてURC、音楽舎の秦政明も秦氏の末裔なのかもしれない。
日本列島がアジアの端に位置するのは、それなりの意味がある。
アジアで生まれ、醸成されるあらゆる文化が、陸を伝い、最後は日本海を超えてやって来る。そして島国特有の《多様な文化をごちゃまぜにしてさらに新しいものに変化させる》という錬金術のごとき文化の変革が、自然の流れの中で行われる。
宗教がそうならば、音楽もやはり同じで、古来よりアジアの恩恵に預かりながら、この国ではいろとりどりの歌がうまれてきた。
そして第二次世界大戦後は、多くのバンドやコメディアンが進駐軍のキャンプやジャズ喫茶で腕を磨いた。

 

 レディス&ジェントルメン
 おとっつぁん&おっかさん
 おこんばんは!

 

 「レディス&ジェントルメン」詞・曲:トニー谷 唄:トニー谷

 

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1955年にハナ肇キューバン・キャッツというバンドを結成し、それが翌年に「ハナ肇とクレージーキャッツ」と名を改めた。
バンドのフロントマンとなる植木等は、「萩原哲昌とデューク・オクテット」「植木等とニュー・サウンズ」「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」を経て、クレージーキャッツに加入。当時はバンド間の移籍や引き抜きが非常に多かった。
リーダーはドラムスのハナ肇。そして、ボーカルとギターの植木等トロンボーン谷啓、ベースの犬塚弘、テナーサックスの安田伸、ピアノが石橋エータロー桜井センリ
植木等さんの実家は浄土真宗のお寺で、植木さん自身もバンドボーイになる前は修行にいそしみ、お父さんが警察に捕まったときはかわりに法衣をまとった。
父、植木徹誠は、浄土真宗大谷派の僧侶で、そして元々はキリスト教徒。さらに水平社などの部落解放運動に参加し、共産党員でもあった人だ。
ただの住職ではおさまらない、燃えるように生きた、行動の人だ。
1988年に鎌倉の円覚寺植木等が父についての講演をした際、その演題は「支離滅裂」というものだった。
キリスト教浄土真宗、部落解放運動、社会主義革命、義太夫語りへの夢、そして恋。
一般的な感覚で見たら、植木徹誠の思想と行動は支離滅裂なのかもしれない。けれど彼は本質的かつ実直なアクティビストだ。まるで高田渡の父、高田豊を想起させる。
小さな北鎌倉駅を下車してすぐ目の前にある、鎌倉五山二位の瑞鹿山円覚寺。かつて坐禅に敗北してうなだれた透明の夏目漱石も、時空を超えて。たのしく聴講したことだろう。

 

 古都を見下ろして 長谷へと下る
 旅路切り通しよ
 そこに行き交う
 "今生きる"も "今は亡き"人も
 遥かな時代(とき)を夢見て越えて
 訪れる砦

 

 「古の風吹く杜」詞・曲:桑田佳祐 唄:桑田佳祐

 

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金子光晴といい、第二次大戦中に戦争に反対した人たちに、凄まじい気骨とオリジナリティを感じる。
本間建彦さんの著作「高田渡と父・豊の『生活の柄』」によると、高田家三代が戦争から逃れようとしたことがわかる。
高田渡の祖父である高田馬吉も、西南戦争の折、ほかの家の養子となった。次男になれば徴兵を逃れられたからだ。しかしそこの家族と折り合いがつかず、高田家に戻ってきてしまい、結局、徴兵されてしまったというのは、何とも人間的で、渡さんのおじいさんらしいエピソードだ。
渡さんの父、高田豊も、第二次大戦の折、京都の出版社の弘文堂を退職し、財団法人日本海事新聞の編集局の校正主任となった。内閣情報局の管理下にあるところに勤めることで、戦場行きを免れた。
からして、高田渡がアイロニカルな「自衛隊に入ろう」で実質的なデビューを飾るのは必然だったのだろう。

 

 たばこを吸いながら 劣等生のこのぼくに
 すてきな話をしてくれた ちっとも先生らしくない

 ぼくの好きな先生
 ぼくの好きなおじさん

 

 「ぼくの好きな先生」詞:忌野清志郎 曲:肝沢幅一 唄:RCサクセション

 

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竹中労甲府刑務所収監、ルポライター事始めを経て、この1961年に日本共産党に再復党している。内部変革を狙ったためだ。
一方で、野村秋介は網走刑務所を出所、三上卓との知己を得て、憂国同志会を結成する。
映画館のスクリーンには今村昌平の「豚と軍艦」が描き出され、ブラウン管からは「シャボン玉ホリデー」の夢が展開されていた。
クレージーキャッツの面々は、まこと破廉恥なジャズマンでありコメディアンであるのに、満員電車に揺られて出勤するサラリーマンのふりをし、高度成長を支える全国の9時から5時の勤め人を、明るく軽薄に鼓舞した。
芸能が豊かに展開される時代は、政治も激しく展開される時代だった。
一方でナンセンスコメディの世界があって、一方でアナーキズム新右翼の火種がおこされた。
クレージーの初の大ヒット曲となる「スーダラ節」が発表される前に、生真面目な植木等は徹誠さんにその歌詞を見せ、相談した。「わかっちゃいるけどやめられない」というのが、み仏の教えに反しているのではないかと気になったのだ。しかし植木徹誠は歌詞を見るなり言う。
「これは真宗の教えそのものだ!」
おそるおそる「スーダラ節」を歌った息子に対し、涙を流して感動し、激励する。
親鸞は90歳まで生き、仏僧としてタブーであることを何でもやった。これでいいのだ!

 

 これでいいのだ これでいいのだ
 ボンボンバカボン バカボンボン
 天才一家だ バカボンボン

 

 「天才バカボン」詞:東京ムービー企画部 曲:渡辺岳夫 唄:アイドル・フォー

 

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深沢七郎の発表したブラックユーモア小説「風流夢譚」において、日本に革命が起き、天皇皇后や皇太子らが斬首させられるという箇所に、右翼少年が激怒した。
事件は2月1日。
小森一孝は、前年の浅沼稲次郎暗殺事件の犯人、山口二矢と同じく17歳の少年だった。しかも大日本愛国党をやめた直後の犯行というのも共通している。
しかし決定的に違うのは、一般人の命を奪ったことだ。小森は「風流夢譚」が掲載された中央公論社の社長、嶋中鵬二の自宅に押しかけた。だが当の社長は不在だったため慌て、奥さんを刺して重傷に、お手伝いさんを殺めてしまう。
だから山口は烈士として祀られても、小森は右翼史から半ば抹消される。
12ページのナンセンス小説だった。
右も左もユーモアをしばしば理解できない。
そして付け加えておくべきは、この「風流夢譚」を絶賛していたのは、山口二矢と同じように現在、烈士として称えられている三島由紀夫であるということだ。
そして自分が書いたものが原因で、人を死なせてしまった失意の深沢七郎は、しばらくの旅に出る。
逃亡と彷徨の旅路の中で、エルビス・プレスリーの声は遥か異国の奇妙な作家を元気づけていたのだろうか。

 

 Love me tender,
 Love me sweet,
 Never let me go.
 You have made my life complete,
 And I love you so.

 

 「Love me tender」詞:Ken Darvy 曲:George R. Poulton

 

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1961年8月20日。「スーダラ節」リリース。
当初は「こりゃシャクだった」がA面で「スーダラ節」はB面だったが、人気によって逆転した。青島幸男の歌詞が流れるように展開する。
詞と曲と唄と音、すべてのパフォーマンスが一体化していき、ショーは最高潮に達し、そうして一億人の人生の悲哀は報われる。笑いという最善の浄化をもって。
クレージーキャッツ添田唖蝉坊の系譜だ。洗練された強烈なユーモアで世間を風刺する。その唖蝉坊のまた異なる系譜としての高田渡がいて、一方で歌謡曲は華やかだし、GSもいて、何ともはや60年代は芸能歌舞音曲の異常事態である。
芸術と政治と宗教と風俗と、人間がつくり出すあらゆる事象が、カテゴライズされながらも交差し混ざり合うことが当然だった時代に、クレージーキャッツは背広を着たサラリーマンの姿をして異界から登場した。
ジャズで培われた音楽性と、ナンセンスの青島イズムと、浄土真宗がひとつになって、すべてをウソに、すべてをホントに、そしてそべてを無意味化する。コメディには、音楽には、これほどまでの力がある。
植木等の「等」の名は、すべての人は平等であるという、徹誠の意志と闘いのあらわれだった。

 

 通勤電車の中で 赤ん坊の笑いが走る
 誰も負けてしまうその流れ
 ぼくの前をゆらゆら
 負けんぞと笑いを投げても
 包まれ悲しくなって叫ぶ
 赤ん坊さんよ負けるなよ

 

 「赤ん坊さんよ負けるなよ」詞・曲:岩井宏 唄:岩井宏

 

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池田勇人中曽根康弘に「やっぱり日本も核を持たないとダメだね」と言った。
ケネディを暗殺したのはおそらくCIAだが、CIAは当時の岸内閣および池田内閣に秘密資金を送っており、日本政界工作を図っていた。
テレビのブラウン管では、初代林家三平が「どーも、すいません!」と手を額に当てて笑っていた。寄席では毎回、ストーリーがめくるめく逸脱する、徹底的なナンセンスを体現していた。
日米政府の数十年におよぶクダラナイ政治と、林家三平クレージーキャッツが魅せていた常識を突破する捉えようのないほどの力を示す笑い、どちらが人間の救いなのでありましょうか!?
21世紀もいくらかを過ぎたいま、世の中を嘆き、体制や権力に問題意識を掲げ、拳を高く上げる人は多い。じつに頼もしいことである。しかし同時に、ナンセンスもロックンロールもブルーズも理解されにくい、理屈と常識ばかりの窮屈な時代にもなっている。
と、こんな文面もまた、意味に縛られた戯れ言である。
唖蝉坊、クレージー、これでいいのだ、ハナモゲラサザンオールスターズと、ニッポン芸能史はいつだって《意味からの解放》を示してくれていた。

 

 ラメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイ
 パリコトパナナデフライフライフライ

 

 「東京節」詞:添田さつき 曲:Henry Clay Work "Marching Through Georgia"

 

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12月、日本銀行秋田市店にて偽千円札、見つかる。
以降、全国で343枚の偽札が発見される。
「チ-37事件」、走りつづけた高度経済成長ニッポンが、架空の石につまずき、すっ転んだ。

 


text by 緒川あいみ(れいたぬ)

*参考図書
本間建彦「高田渡と父・豊の『生活の柄』」(社会評論社

 

☆次回予告
第5回は、「」です。

 

(この連載は、ホームページに書いている「フォークソング・クロニクル」のはてなブログ版です。
この第4回は http://morinokaigi.chu.jp/f-chronicle/4_1961 のコピーです)

第3回 1960年、哀しみの60年安保!短刀持った山口二矢と新聞配った高田渡

 アカシアの雨にうたれて
 このまま死んでしまいたい
 夜が明ける 日がのぼる
 朝の光りのその中で
 冷たくなったわたしを見つけて
 あの人は
 涙を流してくれるでしょうか

 

 「アカシアの雨がやむとき」詞:水木かおる 曲:藤原秀行 唄:西田佐知子

 

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マメ科ネムノキ亜科のアカシアの花は、日本では関東より北では育たないという。
育たなかった、育てられなかった、咲いたけれども乱暴に踏みつくされ根絶やしにされた、その花がいっせいに雨のなかに散った夕暮れ。
長い年月が流れた。
1970年、「命はひとつ 人生は一回 だから命を捨てないようにね」と加川良が歌った。
1981年、「死ぬのは嫌だ、怖い。戦争反対!!」とコントをした。
2015年、「戦争したくなくてふるえる」と北海道の女の子たちがデモをした。
アカシアの花は、咲きつづけた。

 

 命はひとつ 人生は一回だから
 命を捨てないようにね
 あわてると ついふらふらと
 お国のためなのと言われるとね

 

 「教訓1」詞・曲:加川良 原詩:上野遼 唄:加川良

 

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1960年1月19日、ときの総理、岸信介と、アメリカ大統領アイゼンハワーによって、日米安保の新条約が締結。
同年5月19日、自民党強行採決によって翌日、衆院本会議を通過。
フィクサー児玉誉士夫の掌の上で、自民と右翼とヤクザと左翼と警察の大狂乱。
阿波徳島から八百八狸も、金色の雲に乗ってどろんどろんとあらわれて、上を下への大騒ぎ。
すわ妖怪大戦争かと日本中から百鬼夜行、戦前の小林多喜二幸徳秋水添田唖蝉坊の幽霊も登場だ。
しかし霊界の後方支援もありつつも、左翼の敗北、バタンキュー。
アメリカと日本の関係はいまも同じように続き、現在、岸信介の孫がさらに日本を戦争に近づけている。
ならば、単なる「アベ政治は許さない」なるフレーズでは済まされない、長期的かつ計画的な《悪政のブラックホール》が存在するということだ。
しかし街角の映画館のスクリーンには確かに、「座頭市」シリーズの前身である映画「不知火検校」が映写され、不敵な笑みを浮かべていた。
勝新太郎演じる、生き抜いていくエネルギーの充満した、強き二人。
不知火は悪人であり、市は善人である。
だがどちらにしろ、不知火検校にしろ、座頭市にしろ、60年安保のゴタゴタに巻き込まれたならそのときは、斬って斬って斬りまくるだろう。
「見当つけて、斬ってきな!」

 

 赤い夕日に さすらいながら
 死んだやつらに 子守唄

 

 どこで果てよと 誰が泣く
 知らぬ他国の 蝉がなく

 

 「座頭市子守唄」詞:いわせひろし 曲:曽根幸明 唄:勝新太郎

 

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そんな時代の騒乱をよそに、高田渡一家は何とか深川のアパートに落ち着いていた。
不知火や市がそうしたように、社会がどうであれ、個人は個人としてまず生き延びねばならない。練馬のアパートを出て行き、上野公園近くにあった進駐軍の兵舎、通称カマボコハウス跡を使ったシェルター施設を経て、辿り着いたのは深川の塩崎荘。
このアパートでは、四畳半の部屋を上下に分けて、二家族が暮らしていた。だから、基本的に立つことができない!
渡さんの父である高田豊さんはニコヨンになった。日雇い労働者だ。
小学生の渡さんも、紐に磁石をつけて道を歩いてくっついた金属品を売ったり、新聞配達をしたりした。

 

 僕のアダナを知っているかい
 朝刊太郎と云うんだぜ
 新聞くばってもう三月
 雨や嵐にゃ慣れたけど
 やっぱり夜明けは眠たいなア

 

 「新聞少年」詞:八反ふじを 曲:島津信男 唄:山田太郎

 

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ある配達の朝、山口二矢による社会党浅沼稲次郎刺殺の一面が強く印象に残った。
山口二矢は当時17歳、高田渡より6最年長だ。
赤尾敏大日本愛国党をやめた直後、10月12日、日比谷公会堂で演説する浅沼目掛けて、まるで隠密のごとく素早く壇上へ、そしてナイフで暗殺を決行した。
6月には、同じく社会党河上丈太郎がべつの右翼少年に襲撃されている。
逮捕された山口は、少年鑑別所の監獄で、歯磨き粉で《七生報国 天皇陛下万才》と書いて、自ら命を絶った。
日本の政治的テロルの最後の存在だったのかもしれない。
以降は、野村秋介のように相手を殺さない自決が主流となり、さらにはカルト宗教の妄信的テロルに変わっていく。
極左集団による爆弾テロは何度も起こったが、もはや社会やメディアの関心はそちらにはなく、人の命を奪って世の中を変えるという感覚は、時を経て世間にとって非常識なものでしかなくなった。
そしていまとなっては、思想も何もない、「相手は誰でもよかった」という通り魔やストーカー殺人ばかりになった。
それを「ゆとり世代」などと、上の世代が揶揄し冷笑するのは簡単だし愛がない。そのような言説をとる「団塊の世代」がいたら、優しくないな、と私はケイベツする。
時代が《政治の季節》から《個人の寂しさ》になぜ変わったのか、思いを巡らせる必要はあるだろう。

 

 この世に神様が 本当にいるなら
 あなたに抱かれて 私は死にたい
 ああ湖に 小舟がただひとつ
 やさしくやさしく くちづけしてね
 くり返す くり返す さざ波のように

 

 「愛のさざなみ」詞:なかにし礼 曲:浜口庫之助 唄:島倉千代子

 

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ある日、ガキ大将に怪我をさせられ、渡さんは怒って椅子を振り上げた。そして二人は友達になった。
彼の家に招かれると、そこは在日朝鮮人の集落だった。
渡さんは、貧しく差別されながらも明るく生きる在日コリアンたちの生き様を、しっかりと見た。そうやって高田渡という人物はできていったのだろう。
ああニヒルで達観した高田渡と高田豊には、学生たちの60年安保闘争の騒乱も、山口二矢浅沼稲次郎暗殺事件も、冷めた目で見るしかなかったかもしれない。
いや、11歳の少年にそれは言い過ぎかしら。

 

 我が家でチゲ肴にワイン
 キムチの味 オモニのサイン
 (かっこいいじゃん)そうかい
 (なつかしいじゃん)まあね
 なぜだか故郷みたいさ

 

 「LOVE KOREA」詞・曲:桑田佳祐 唄:サザンオールスターズ

 

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日本各地に反安保の運動はひろがり、6月15日にその盛り上がりは頂点に達した。
渡さんのお兄さんたちはデモに行き、渡さんと豊さんは部屋でラジオを聞いていた。お兄さんたちは帰って来なかった。
18日になって渡さんは父の手に引かれ、デモを《見学》に行った。参加ではなく、見学である。
後年、ライヴで高田渡は「あー、やってるな、って父親と見に行った」と話しているが、自伝「バーボン・ストリート・ブルース」では、「とにかく歩き、わけもわからず叫んだ」と記されている。こちらのほうがリアルだ。
親子は手をつないで塩崎荘に帰った。兄たちは翌朝、戻ってきた。

 

 安保法案 アンポンタン
 違憲の意見を聞きもせず
 今すぐ何かがあるじゃなし
 そんなに急いで何処行くの

 

 平和・平和で 今日まで生きてきた
 他国がうらやむ 平和な国だもの
 安保法案 お前はアウト!だよ~

 

 「安保法案・アウト!」詞:さいたまんぞう 曲:南雲修治 唄:さいたまんぞう

 

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読売アンデパンダン展」で出会った赤瀬川原平、篠原有司男、そしてのちに三鷹天命反転住宅などをつくる荒川修作らが、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成し、既成の芸術の破壊、《反芸術》を次々と目論んだ。
それは東京都美術館爆破計画にまで行き着く勢いだった。
極左の爆弾テロじゃない。アーティストたちによる美術館テロだ。
実行しなかったとはいえ、インパクトがすごい。
やはり、アートを忘れた政治よりも、政治を取り戻したアートのほうが強固である。

 

 まわる まわるよ 僕らを乗せながら
 まわる まわるよ 地球はメリーゴーランド
 哀しみ歓びすべて乗せてゆくよ
 明日も愉しくまわるよ

 

 「地球はメリーゴーランド」詞:山上路夫 曲:日高富明 唄:GARO

 

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錆びついた鉛みたいな風が吹き抜ける東京のあちこちで、西田佐知子の歌う「アカシアの雨がやむとき」が流れていた。
その歌は、安保闘争に疲弊した学生たちの心境と重なり、支持された。
アメリカではピート・シーガーらによって、「We Shall Overcome(勝利を我らに)」が歌われていたというのに、日本では戦に敗れたあと。
そして闘いは疲弊ののちに何度も繰り返された。70年安保、2015年安保。
その未来をまるで「知ってるつもり?」(by 関口宏)なのか、西田佐知子は「アカシアの雨がやむとき」を歌い、大衆に一時的にカタルシスを与えた。
しかし、11歳の高田渡はすでに知っていたかもしれない。
雨が降ろうが止もうが、空は空であることを。
「このまま死んでしまいたい」なんて感傷的な言葉は、当時の高田渡にどう聴こえたのだろうか。

 

 死んだはずだよ お富さん
 生きていたとは お釈迦さまでも
 知らぬ仏のお富さん
 エーサオー 源冶店(げんやだな)

 「お富さん」詞:山崎正 曲:渡久地政信 唄:春日八郎

 

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安保闘争の中、国会正門前で死亡した樺美智子の葬儀集会に、のちに高田渡と懇意となる詩人、金子光晴の姿があったという。
「アカシアの雨がやむとき」のB面の「夜霧のテレビ塔」は、時空を超えて、赤、青、と点滅し、小さき者たちの死を悼む。
東京タワーは、戦後の瓦礫と戦車を溶かした鉄でつくられた供養塔だ。
そして竹中労は、安保闘争の裏通り。
芸能人、皇族、死者とあらゆる人物の手記をひたすら代作していた。

 


text by 緒川あいみ(れいたぬ)

*参考図書
高田渡「バーボン・ストリート・ブルース」(山と渓谷社

 

☆次回予告
第4回は、「1961年、浄土真宗はジャズ!?クレージーキャッツと高度成長」です。

 

(この連載は、ホームページに書いている「フォークソング・クロニクル」のはてなブログ版です。
この第3回は http://morinokaigi.chu.jp/f-chronicle/3_1960 のコピーです)