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うたと革命の一万年史「フォークソング・クロニクル」 赤盤 A面 track-4 スーダラ節 / ハナ肇とクレージーキャッツ(1961)

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"Folksong Chronicle"
赤盤 A面 track-4
スーダラ節 / ハナ肇とクレージーキャッツ(1961)

 


「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
 しかるを世の人つねにいはく、
 『悪人なほ往生す、いかいいはんや善人をや』」

親鸞は、法然上人の説いた浄土往生の教えのさらに先へ辿り、より深く世界の真理を獲得していく。
それがのちに浄土真宗と呼ばれるようになるわけだが、ところで浄土教キリスト教はとても似ている。
悪人正機と原罪。創造主と阿弥陀仏神の国と極楽浄土。
人間の力など大したことはない。他力本願。すべては神様、仏様の名において。
法然の家はユダヤからの移民である秦氏であり、親鸞西本願寺に保存されていたキリス教ネストリウス派の経典「世尊布施論」を読んでいた。
日本列島がアジアの端に位置するのには、それなりの意味がある。アジアで生まれ、醸成されるあらゆる文化が、陸を伝い、最後は日本海を超えてやって来る。そして島国特有の《多様な文化をごちゃまぜにしてさらに新しいものに変化させる》という錬金術のごとき文化の変革が、自然の流れの中で行われる。
宗教がそうならば、音楽もやはり同じで、古来よりアジアの恩恵に預かりながら、この国ではいろとりどりの歌が生まれてきた。
そして第二次世界大戦後は、多くのバンドが進駐軍のキャンプやジャズ喫茶で腕を磨いた。

1955年にハナ肇キューバン・キャッツというバンドを結成し、それが翌年に「ハナ肇とクレージーキャッツ」と名を改めた。
バンドのフロントマンとなる植木等は、「萩原哲晶とデューク・オクテット」「植木等とニュー・サウンズ」「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」を経て、クレージーキャッツに加入。当時はバンド間の移籍や引き抜きが非常に多かった。
植木等さんの実家は浄土真宗のお寺で、植木さん自身もバンドボーイになる前は修行にいそしみ、父が警察に捕まったときはかわりに法衣をまとった。
父・植木徹誠は、浄土真宗大谷派の僧侶。そして元々はキリスト教徒。水平社などの部落解放運動に参加し、共産党員でもあった。

1988年に鎌倉の円覚寺で、植木等が父についての講演をした際、その演題は「支離滅裂」というものだった。
キリスト教浄土真宗、部落解放運動、社会主義革命、義太夫語りへの夢、そして恋。
一般的な感覚で見たら、植木徹誠の思想や行動は支離滅裂なものかもしれない。けれど彼は本質的かつ実直なアクティビストだ。まるで高田渡の父、高田豊を想起させる。
ちいさな北鎌倉駅を下車してすぐ目の前にある、この鎌倉五山二位の瑞鹿山円覚寺。坐禅に敗北してうなだれた透明の夏目漱石も、たのしく聴講したことだろう。
金子光晴といい、第二次大戦中に戦争に反対した気骨ある人々に、いま関心は持たれるべきだろう。
高田渡の祖父である高田馬吉も、西南戦争の徴兵を逃れようと、ほかの家の養子になって次男になった。でもそこの家族と折り合いがつかず、高田家に戻ってきてしまい、結局、徴兵されてしまったというのは、何とも人間的で、渡さんのおじいさんらしいエピソードだ。

竹中労は、甲府刑務所収監、ルポライター事始めを経て、この1961年に日本共産党に復党している。内部変革を狙ったためだ。
一方で、野村秋介は、網走刑務所を出所、三上卓との知己を得て、憂国同志会を結成する。
映画館のスクリーンには今村昌平の「豚と軍艦」が描き出され、ブラウン管からは「シャボン玉ホリデー」の夢が展開されていた。
クレージーキャッツの面々は、まこと破廉恥なジャズマンでありコメディアンであるのに、満員電車に揺られて出勤するサラリーマンのふりをし、高度成長を支える全国の9時から5時の勤め人を、明るく軽薄に鼓舞した。
芸能が豊かに展開される時代は、政治も激しく展開される時代なのだ。
一方でナンセンスコメディの世界があって、一方でアナーキズム新右翼の火種がおこされた。

クレージーの初の大ヒット曲となる「スーダラ節」が発表される前に、生真面目な植木さんは徹誠さんにその歌詞を見せ、相談した。「わかっちゃいるけどやめられない」というような歌が、仏の教えに反しているのではないかと不安に思ったのだ。しかし父の反応はまるで予想外のものだった。
「これは真宗の教えそのものだ!」
おそるおそる「スーダラ節」を歌って見せた息子に対し、涙を流して感動する。
親鸞さまは90歳まで生きられて、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけない、そういうことを最後までみんなやっちゃった。人類が生きている限り、このわかっちゃいるけどやめられないという生活はなくならない。これこそ親鸞聖人の教えなのだ。そういうものを人類の真理というんだ。上出来だ。がんばってこい!」
親鸞はいわゆる仏僧としての規範をことごとく無視した。肉を食い、結婚をした。
わかっちゃいるけどやめられない。人間、これでいいのだ!

想念の果て。
高度経済成長まっただ中のTOKYO。
アスファルトの舗道に、タキシードを着た添田唖蝉坊が佇んでいる。
その前をニコヨンの仕事に奔走する高田豊が通り過ぎていく。
一切はフォークソングであり、一切は歌謡曲である。
語ることと歌うことは境目をなくし、音楽と笑いはひとつになる。
自動車が排気ガスを噴出して猛スピードで走り去る。
あわてて電信柱にしがみつく唖蝉坊。そしてひとこと。
「およびでナイ!こりゃまた失礼いたしました!」

激動の時代なのだから、悲劇もあった。
深沢七郎の発表したブラックユーモア小説「風流夢譚」において、日本に革命が起きて、天皇皇后や皇太子らが斬首させられるという箇所に、右翼少年が激怒し、ことの決行に出た。
2月1日、小森一孝は、前年の浅沼稲次郎暗殺事件の犯人、山口二矢と同じく、17歳の少年だった。しかも大日本愛国党をやめた直後の犯行というのも共通している。
しかし共通していないのは、彼が一般人を殺めてしまったことである。「風流夢譚」が掲載された中央公論社の社長、嶋中鵬二の自宅に押しかけ、だが当の社長が不在で慌てた中、奥さんを重症に、お手伝いさんを刺殺してしまう。
山口二矢は政治家の浅沼を鮮やかに殺害したが、小森のテロルはあまりに無様なものだった。
だから山口はいまも右翼活動家のあいだでは烈士として祀られていても、小森は右翼史から半ば抹消されている。
たかが12ページのナンセンス小説である。
右も左も真面目だから、政治運動というものはしばしばユーモアを理解できない。
そして付け加えておくならば、この「風流夢譚」を絶賛していたのは、山口二矢と同じように現在、烈士として称えられている三島由紀夫であるという噂だ。
それはほんとうなのか間違いなのか定かではないが、三島はやはりアーティストなのであり、《書くこと》の次のステージに行きたかったから、楯の会をつくったのだろう。そして結果、右翼のイコンとなった。
そして自分の書いたものが原因で、人を死なせてしまった失意の深沢七郎じいさんは、しばらくの旅に出る。

1961年8月20日。作詞、青島幸男。作曲、萩原哲晶。「スーダラ節」リリース。
当初は「こりゃシャクだった」がA面で「スーダラ節」がB面だったが、人気によって面が逆転した。
青島幸男の歌詞は流れるように展開する。
ひとめ見た娘にたちまちホレて、よせばいいのにすぐ手を出して・・。。詞と曲と歌と音、すべてのパフォーマンスが一体化していき、ショーは最高潮に達し、そうして一億人の人生の悲哀は報われる。笑いという最善の浄化をもって。
クレージーキャッツ添田唖蝉坊の系譜だ。洗練された強烈なユーモアで世間を風刺する。その唖蝉坊のまた異なる系譜としての高田渡がいて、一方で歌謡曲は華やかだし、スパイダースやタイガースらGSもいて、何ともはや60年代は芸能歌舞音曲の異常事態である。
芸術と政治と宗教と風俗と、人間がつくり出すあらゆる事象がカテゴライズされながらも交差し混ざり合うことが当然だった時代に、クレージーキャッツは背広を着たサラリーマンの姿をして異界から登場した。ジャズで培われた音楽性とナンセンスの青島イズムと浄土真宗がひとつとなって、すべてをウソに、すべてをホントに、そしてすべてを無意味なものとする。コメディには、音楽には、これほどまでの力がある。
植木等の「等」の名は、すべての人は平等であるという、徹誠の意志と願いだった。

池田勇人中曽根康弘に「やっぱり日本も核を持たないとダメだね」と言った。
ケネディを暗殺したのはおそらくCIAだが、CIAは当時の岸内閣および池田内閣に秘密資金を送っており、日本政界工作を図っていた。でもそんなことはもうずっと行われていることかもしれない。
一方、テレビのブラウン管では初代林家三平が「どーも、すいません!」と手を額に当てて笑っていた。
寄席では毎回、ストーリーなどはめくるめく逸脱する、徹底的なナンセンスを体現していた。
日米政府の何十年にもおよぶこのクダラナイ偽りの政治とやらと、林家三平師匠やクレージーキャッツが魅せていた、常識を突破する捉えようのないほどの力を示す一連の笑い、どちらが人間の本質なのかと問いたい。
21世紀もいくらかを過ぎ、どんどんと悪くなっていく世の中を嘆き、体制や権力に問題意識を掲げ、拳を高く上げる人たちは多い。それは頼もしい。だけど同時に、ナンセンスもロックンロールもブルーズも理解されない、理屈と常識ばかりの窮屈な時代にもなっている。
サザンオールスターズ紅白歌合戦後の謝罪について、「桑田佳祐忌野清志郎になれなかった」なんて意見があった。最悪だと思った。そこには文化への理解が微塵もない。そもそもミュージシャンの楽曲や発言を都合のよいところだけ取り上げてムーブメントに利用しようとする根性が浅はかだ。笑いのセンスもなければ、芸能というものの本質もない。
あの2014年大晦日の桑田さんに、クレージーキャッツ三木鶏郎添田唖蝉坊の姿を私は重ねたのだけど
と、こんな文面をつらつらと書いていると、聴こえてくるのだ。植木さんの無責任な歌声が。
クレージー、これでいいのだ、ハナモゲラ、サザンと、ニッポン芸能史はいつだって《意味からの解放》を示してくれていたのだ。

12月、日本銀行秋田支店にて偽千円札みつかる。
以降、全国で343枚の偽札が発見される。
「チ-37事件」、走りつづけた高度経済成長ニッポンが、架空の石につまづき、すっ転んだ。

 

 

 

□参考図書
本間健彦高田渡と父・高田豊の『生活の柄』」(社会評論社
植木等「夢を食いつづけた男 おや徹誠一代記」(朝日新聞社

 

 

 

緒川あいみ ogawa aimi

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うたと革命の一万年史「フォークソング・クロニクル」 A面 track-3 アカシアの雨がやむとき

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マメ科ネムノキ亜科のアカシアの花は、日本では関東より北では育たないという。

育たなかった、育てられなかった、咲いたけれども乱暴に踏みつくされ根絶やしにされた、その花がいっせいに雨のなかに散った夕暮れ。
それから55年の月日が過ぎた。
1970年、「命はひとつ 人生は一回 だから命を捨てないようにね」と加川良が歌った。
1981年、「死ぬのは嫌だ、怖い。戦争反対!!」とスネークマンショーがコントをした。
2015年、「戦争したくなくてふるえる」と北海道の女の子たちがデモをした。
アカシアの花は、咲きつづけた。
時空を振り返って、高田渡少年、11歳。

1960年1月19日、ときの総理、岸信介と、アメリカ大統領アイゼンハワーによって、日米安保の新条約が締結。
同年5月19日、自民党強行採決によって翌日、衆院本会議を通過。
以降、この年は、自民党と右翼とヤクザと左翼と警察の大騒乱になる。
そして、アメリカと日本の関係はいまも同じように続き、現在、岸信介の孫がさらに日本を戦争に近づけている。
ならば、単なる「アベ政治は許せない」なるフレーズでは済まされない、長期的かつ計画的な悪政のブラックホールが存在するということだ。
しかし、街角の映画館のスクリーンには確かに、「座頭市」シリーズの前身である映画「不知火検校」が存在していた。
勝新太郎演じる不知火は悪人であり、市はというと善人である。
だがどちらにしろ、不知火検校にしろ、座頭市にしろ、60年安保のゴタゴタに巻き込まれたならそのときは、斬って斬って斬りまくるだろう。

時代の騒乱をよそに、高田渡一家は何とか深川のアパートに落ち着いていた。
社会がどうであれ、個人は個人として、まず生き延びねばならない。
練馬のアパートを夜逃げ同然で出て行き、上野公園近くにあった進駐軍の兵舎、通称カマボコハウス跡を使ったシェルター施設を経て、辿り着いたのは深川の塩崎荘。
このアパートでは、四畳半の部屋を上下に分けて、二家族が暮らしていた。だから、基本的に立つことができない!
渡さんの父である高田豊さんはニコヨンになった。日雇い労働者である。
小学生の渡さんも、紐に磁石をつけて道を歩いて、くっついた金属品を売ったりした。

新聞配達もした。11歳の少年には、山口二矢による社会党浅沼稲次郎刺殺の一面が脳裏に残った。
山口二矢は当時17歳、高田渡より6歳年長だ。
赤尾敏大日本愛国党をやめた直後、10月12日、日比谷公会堂で演説する浅沼目掛けて、まるで隠密のごとく素早く壇上に上がり、暗殺を決行した。
この年の6月には、同じく社会党河上丈太郎が右翼少年に襲撃されていた。
逮捕された山口は、少年鑑別所の監獄で、歯磨き粉で《七生報国 天皇陛下万才》と書いて、自ら命を絶った。
日本の政治的テロルの最後の存在だったのかもしれない。
以降は、相手を殺さない自決が主流となり、さらにはカルト宗教の妄信的テロルに変わっていく。
いまとなっては、思想も何もない、「相手は誰でもよかった」という通り魔やストーカー殺人ばかりになってしまった。

しかし私がここで重要視したいのは、暗殺決行の8日前に、山口二矢アコーディオンを探しているときに、脇差を見つけた事実である。
もし彼の家にそんな物騒なものはなく、そのままアコーディオンを無事に見つけていたのなら、もしかして彼は、極端な思想を持ちつつも、素晴らしい音楽家になっていたかもしれない。
高田渡がギターを見つけたように、山口二矢アコーディオンを見つければよかった。
浅沼稲次郎もまた天皇を愛した政治家であった。
それに、右翼に転向する前の赤尾敏が三宅島で展開していた新しき村運動にも関係していた。
しかし同時に、浅沼稲次郎の遠縁の親戚、浅沼美智雄は、愛国党の人間である。
人の世はまこと複雑に絡まり合い、言葉を尽くしたところで説き明かせない境地がある。
でもそうしたところに高田渡は存在しない。
彼はただ、生活費のために新聞を配っていただけだ。

ある日、ガキ大将に怪我をさせられ、渡さんは怒って椅子を振り上げた。そして二人は友達になった。
彼の家に招かれた。そこは在日朝鮮人の集落だった。
みんな貧乏だった。 ほんとうに、みんなが貧乏だった。
けれどそんな中で渡さんは、貧しく差別されながらも明るく生きる在日コリアンたちの生き様を、しっかりと見た。
そうやって、高田渡という人物はできていった。
そんな渡さんと豊さんには、学生たちの60年安保闘争の騒乱も、山口二矢浅沼稲次郎暗殺事件も、冷めた目で見るしかなかったかもしれない。いや、11歳の少年にそれは言い過ぎか。
とにかく、日本各地に運動は広がり、6月15日にその盛り上がりは頂点に達した。
渡さんのお兄さんたちはデモに行っていた。部屋でラジオを聞く渡さんと豊さん。兄たちは帰って来なかった。
18日になって、渡さんと豊さんはデモを《見学》に行った。参加ではなく、あくまで見学である。
後年、ライヴで渡さんは「あー、やってるな、って父親と見に行った」と話しているが、自伝「バーボン・ストリート・ブルース」では、「とにかく歩き、わけもわからず叫んだ」と記されている。
親子は手をつないで塩崎荘に帰った。お兄さんたちは翌朝、戻ってきたそうだ。

読売アンデパンダン展」で出会った赤瀬川原平、吉村益信、篠原有司男、そして荒川修作らが、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成し、規制の芸術の破壊、すなわち《反芸術》を次々と目論んだ。
それは東京都美術館爆破計画にまで行き着く勢いだった。
やはり、アートを忘れた政治よりも、政治を取り戻したアートのほうが強固である。

錆びついた鉛みたいな風が吹き抜ける東京のあちこちで、西田佐知子の歌う「アカシアの雨がやむとき」が流れていた。
その歌は、安保闘争に疲弊した学生たちの心境と重なり、支持された。
アメリカではピート・シーガーらによって、「勝利を我らに(We Shall Overcome)」が歌われていたというのに、日本は戦に敗れたあと。でも闘いは疲弊ののちに何度も繰り返された。70年安保、2016年安保・・・。
その未来をまるで「知ってるつもり?」なのか、西田佐知子は「アカシアの雨がやむとき」を歌い、大衆に一時的にカタルシスを与えた。
しかし、11歳の高田渡はすでに知っていたのかもしれない。
雨が降ろうが止もうが、空は空であることを。
「このまま死んでしまいたい」なんて感傷的な言葉は、当時の渡さんにどう聴こえたのだろうか。
ちなみに西田佐知子のほかのヒット曲に「コーヒールンバ」のリメイクがある。この歌はのちに井上陽水が独特にカバーする。そして渡さんはのちに「コーヒーブルース」という名曲を生む・・。
《一杯のコーヒーから恋の花咲くこともある》と1939年に歌ったのは、霧島昇とミス・コロムビアだ。当時の流行歌が、喫茶店文化の隆盛を示している。
高田渡もまた、若かりし頃に新宿の風月堂に入り浸った時期がある。まだ酒の味を知らないときの、知られざる小さな物語。

 

人生の最初っからリアルなブルーズマンだった渡さん。
まだ、《自分の音楽》には出会っていない。

 

安保闘争の中、国会正門前で警官の鉄棒により死亡した樺美智子の葬儀集会に、のちに渡さんと懇意になる詩人、金子光晴の姿があったという。

 

緒川あいみ

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"Folksong Chronicle"
A面 track-2
東京だョおっ母さん / 島倉千代子(1957)

 

 

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「左翼こそ靖国に行け」と、平岡正明は云った。

今年の終戦記念日も、いつものようにタイムスリップしてきた軍人さんたちがぞろぞろり。
進軍ラッパがこの世の終わりを告げるかのように夏の空に鳴り響き、在特会ほかネトウヨ保守勢が自己のアイデンティティの補完のために英霊を利用している。
奉納された提灯の純粋な悼む気持ちは、遊就館の落とす影のなかで歪曲される。
その一筋縄ではいかない妖しい喧噪の中心に、表情を歪めた鈴木邦男がただ立ち尽くしている。
桜の下で会いましょう。靖国で待っております。
靖国の「靖」という漢字は、《安らかに》という意味である。
しかし、国は安らかになるどころか、ますます歴史を複雑化させ、人々の心を混乱させている。

 

「ベラボーだ!!」

1957年、岡本太郎がスキー場を滑降している。
46歳にして始めたスキー。雪が粉塵となってほとばしり、光の粒となる。

 

高田渡、8歳。母を喪くす。
孤高のアナキスト田豊は、渡さんとその三人の兄を連れて、岐阜の北方町を去った。
佐藤春夫門下での詩人修行をやめ、日本共産党の分裂に愛想を尽かし、人生のリセットボタンを押すかのごとく、残された息子たちと長い長い旅の始まり。
流れ着いたは、若き日に青春期を暮らした首都東京。貧乏に貧乏をかさねたような、どん底の暮らしが始まった。
高田家は住まいを転々とする。渋谷の道玄坂近くの旅館で数泊したのち、武蔵小山、下目黒、品川、練馬とアパートを替えていった。お金がなくなると引越しをするものだから、友達はなかなかできなかった。

 

想念の果てに、風景が見える。ここは日本かアメリカか、それとも。
時間の歪んだ街路を、乳母車を押したウディ・ガスリーが歩いている。腰には刀を差している。
子連れ狼だ!
見ると乳母車は乳母車ではなく、一個の巨大なタマゴである。
タマゴは音も立てずに割れて、中から四人の小さなウディ・ガスリーが現れ、整列する。
大きなガスリーが持っている刀もまた刀ではなく、それはギターであった。
しかし、それも判然とはしない。詩集かもしれないし、酒瓶かもしれない。
何より、彼らはウディ・ガスリーではないだろう。
土手のほうに、乳母車ではなくリヤカーを引いて奔走している恋と夢に明け暮れる若き詩人の姿が見えた。
それは子連れ狼の過去のまぼろしである。
「バカヤロー、あれは捨てた町だ」
そう言って子連れ狼は四人の息子とともに、再び道中を急いだ。
付け加えるべきは、その四人の息子たちの末っ子は、ガスリーでありながら紛れもなく、言い訳知らずの木枯らし紋次郎の冷めた目をしていたことである。

 

昭和32年。

金子光晴は自伝「詩人」を刊行。山之口貘はまだ沖縄に戻る以前だ。
紅顔の美青年、若き赤塚不二夫は、寺田ヒロヲや藤子不二雄石森章太郎らに励まされながら、貸本漫画家として苦しい修行時代を送っていた。
すでにトキワ荘を去った手塚治虫は、「鉄腕アトム」や「ぼくのそんごくう」でヒットを飛ばすと、大人漫画学習漫画、エッセイと活動の幅を広げていく。
三木鶏郎事務所でコントにCMソングと活躍していたのは野坂昭如で、当時のペンネームは阿木由紀夫であった
筒井康隆は「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作心理の精神分析的批判」を卒論に同志社大学を出て、サラリーマンの傍ら、演劇活動を続けていた。
ゴーリキーの戯曲を黒澤明が江戸の長屋に舞台を置き換え、三船敏郎山田五十鈴、中村雁治郎、清川虹子藤原釜足左卜全といった面々が演じた「どん底」が公開されたのは、9月17日のことであった。

 

3月10日、19歳になる直前の島倉千代子が歌う「東京だョおっ母さん」がリリースされた。
作詞、野村俊夫。作曲、船村徹。リリースは3月10日。B面は「故郷のかおり」。
同期デビューの美空ひばりが歌う「波止場だよ、お父つぁん」のような曲をと島倉千代子が言って生まれた、東京と故郷が夢とうつつの中で重なり合う慈愛の歌だ。
「500 Mile」や「Country Road」からサザンオールスターズの「東京VICTORY」に至るまで、歌は《帰れないこと》を示し、それを過去現在未来を通じてやめることはない。
東京とは、物語を終わらせ、物語を始める場所なのだ。そこには絶望と希望とすべてがある。

 

「東京だョおっ母さん」の歌詞では、二重橋、九段下、浅草観音と巡っていく。
戦争で命を落とした《やさしい兄さん》は《桜の下(=靖国神社)》に祀られている。
焼け野原からの復興と、そして文明の発展は目まぐるしくも、しかし第二次世界大戦終結よりいまだ12年の月日しか経っていない。それなのに《新しい昭和》は速度を増していくばかりだ。l

 

島倉千代子は生涯、左腕が不自由であった。
7歳のときに井戸に水を汲みに行くときに大怪我をし、後年になっても少ししか動かすことができなかった。
切断は免れたが、その際の輸血が原因で、のちにC型肝炎を患うことになる。
小児麻痺の姉のほうが歌が上手だった。姉の分までがんばって、歌手になった。
ヒット曲は数あれど、島倉千代子もまた波乱万丈の苦悩多き生涯を送ることになる。
東京だョ、おっ母さん!
幼くして母を亡くし故郷を捨て東京に出てきた高田渡の、これから始まる長い長い人生と重なりゆく。
しかし、高田渡島倉千代子も、いま思い出すのは、その深く可愛らしい笑顔なのだった。

 

8月27日、午前5時23分。
茨城県東海村
原子炉は臨界点に達し、日本最初の「原子の火」が灯った。
それがどういうことなのか、この国に住まう人々が身をもって理解するのは、まだ先のことだった。

ただ、寂しい瞳で微笑んで歌う、島倉千代子の姿があったのみだ。

 

 

つづく

うたと革命の一万年史「フォークソング・クロニクル」 A面 track-1 Blueberry Hill / Louis Armstrong(1949)

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"Folksong Chronicle"
A面 track-1
Blueberry Hill / Louis Armstrong(1949)

 

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幼い頃から吃音が強く、うまく言葉が話せなかった。
それは高田渡にとって、苦く悔しいコンプレックスだった。
のちにそんな彼を救ったものこそ、歌だった。
歌を歌うようになって、どもりは次第に治っていった。

 

広島と長崎に原爆が落ちて第二次世界大戦が終わって3年半。
中国共産党が勢力を広げ、NATOが発足し、イスラエル国連加盟国となり、朝鮮労働党が結成され、煙草の「しんせい」が発売された。
そしてキラキラ光る、穴のあいた5円玉が発行!
レコードみたいな、CDみたいな、輝く小銭!
戦後まもなくの日本を歌謡曲が元気づけていた。この年のヒットは藤山一郎の「青い山脈」。作詞は西条八十、作曲は服部良一

 

1949年1月1日、高田渡はこの世に生を受けた。元旦生まれの月足らずの子。
でもそれはほんとうは一日前の大晦日だったかもしれないし、もっと前だったかもしれない。
高田家はかつて材木屋として美濃の大震災の折りに財を成したが、渡さんのお祖父さんの高田馬吉さんが中津川の干拓に投資をし、財産はパーになった。
濃尾地震は1891年、明治24年の10月28日の朝に発生した。規模は広く、数多くの死傷者が出た。倒壊家屋は14万2177戸といわれる。

 

渡の父である高田豊さんは、若き日の東京時代を経ての実家暮らし。

かつては師匠、佐藤春夫のもとで山之口貘と同門だったが、何か不手際を起こして波紋になってしまう。
この1949年、昭和24年頃は、様々な仕事を試みていた。
壁紙売り、麻雀屋、パチンコ屋、そして山羊のミルクの生産販売業。
だから高田渡の育ての母親は山羊なのである。

 

「山羊のミルクは獣くさい!」(あがた森魚

 

明治24年といえば、添田唖蝉坊は壮士演歌に出会ってはいるがまだ活動を始めてはおらず、オッペケペー節の川上音二郎は大阪で一座を旗揚げ、ミシシッピジョン・ハートはこの世に生を受ける1年前、レッドベリは2歳か3歳。
渡さんが生まれた昭和24年はというと、唖蝉坊はその5年前に鬼籍に入り、息子の添田さつきは知道の本名で作家として活動、ウディ・ガスリーは多くの病気に蝕まれ苦しみ、ピート・シーガーにおいてはウィーバーズがアルマナック・シンガーズに再編される前夜だった。

 

この年、ルイ・アームストロングは「ブルーベリー・ヒル」という曲をリリースしている。まだ「ハロー・ドーリー」も「この素晴らしき世界」も生まれるずっと前。
「ブルーベリー・ヒル」はグレン・ミラー楽団やファッツ・ドミノのほうが有名だが、のちにこの曲をビルボード2位にまでヒットさせたファッツはサッチモを参考にしたと言われている。
作曲は、ヴィンセント・ローズ。元々は、1941年にジーン・オートリーが映画の挿入歌として歌ったのが最初である。
「thrill」「hill」「still」「until」、「playd」「made」と韻を踏んでいく。シンプルな、恋の終わりの物語。そして物語が終わることは物語が始まることだ。人は世界と重なり交わっていくことで、生まれたときは当然のことして持っていた自己の存在価値を取り戻す。


ルイ・アームストロングの生まれ育ったニューオリンズはスラム街で、犯罪と貧乏ばかりだった。そして同時に楽しい音楽で溢れていた。
子供のときにお祭りの狂騒の中、ピストルをぶっ放して少年院に入ったサッチモ。そこでコルネットと出会い、次第に町の人気者になる。
ポップミュージックの王様として知られる彼は、不眠症に悩まされ、マリファナの常習者だった。生涯を通じ、マリファナの解放を論じていた。


サッチモに始まり、素晴らしい魅力あるシンガーには、しゃがれ声の人が多い。二代目廣澤虎造、木村充揮友部正人桑田佳祐・・・そして高田渡。まるで世界そのもののように、声というものはブルーズをまとって風景を捉える。ちなみに添田唖蝉坊は、澄んだ声だったという。


高田渡は後年、「ヴァーボン・ストリート・ブルース」という歌を披露する。バーボン・ストリートはニューオリンズにある通りの名前である。
朴訥として痛烈、ポップでブルージーな彼のその精神は、たぶんにジャズ的であった。

 

ブルーズはほとんど悲しい音楽、そしてその悲しみを元気に歌ったものだから。
宗教における信仰心と、民族の歴史の重たさと、そうしたコミュニティからサッチモは生まれた。
古今東西、芸能者たちはそのような状況と境遇の中で、新しい娯楽や価値観を示しつづけた。

 

「いくら歩いてもいくら歩いても淋しい気持ちは変わらない」(シバ)

 

ルイジアナニューオリンズ、最も歴史のあるフレンチ・クォーターを横切るバーボン・ストリート。
時空を超えて、高田渡ルイ・アームストロングが並んで歩いている。
56歳の渡さんと、69歳のサッチモだ。二人とも元気でピンピンしてる。
通りの角から、83歳の五代目古今亭志ん生がひょいと現れる。やはり顔がつやつやしていて、若者のようだ。
サッチモが言う。
「あなたとワタルをどうして似てるという人がいるのかね?私はまったく似ていないと思うがね」
「高座で寝ちまったことがあるからかねぇ」と志ん生
「呑気なもんだ。私は不眠症でいつも眠れなかったっていうのに」
渡さんは何も言わない。ただ笑っている。
三人の幽霊たちは水色のベンチに腰掛け、珈琲を飲む。

その光景を、レコード店と古書店のあいだの中空に浮遊する半透明のタイムマシンから、私が見ていた。

もうすぐ夜だ。雨も降りそうな予感。
ずっと、歌の旅をしてきた。
宇宙はいつだって、胸の中にあった。

 

ふと銀河に目をやれば、いまがいつだか判然としない。私たちは悠久を生きている。
しかし、ひとまずずここは、竹中労日本共産党に入った2年後の1949年である。
共産党員が福島いわき警察署に「インターナショナル」を歌いながら乱入し、署内を破壊した平事件はこの年だ。
そして朝鮮戦争が勃発してしまう前年としての1949年。
その血と涙の悲しみの軍事特需で、日本は高度経済成長を遂げた。

 

1949年。
ハッピーバースデー、渡さん。
物語が始まる!

 

《つづく》

 

□ 参考図書
高田渡「バーボン・ストリート・ブルース」(山と渓谷社
本間建彦「高田渡と父・高田豊の『生活の柄』」(社会評論社
ラングストン・ヒューズ「ジャズの本」(晶文社

 

文責:緒川あいみ

 

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